木村忠正の仕事部屋(ブログ版)

ネットワーク社会論、デジタル人類学・社会学研究者のブログです。

立教に移って4年度目~大学は気球・国立より優れた教育環境~

 この拙文は、立教大学社会学部、大学院社会学研究科に関心のある方、受験生、在学生、卒業生を念頭に書いています。この点、予め、ご承知おきください。

 私は2015年度に、東大駒場(総合文化研究科)から、立教社会に移りました。

 前職は、私が日本で文化人類学を学んだ大学院であり古巣です。転職を決断する際には、日本の国立大学を取り巻く環境が大きく影響したことは間違いありません。国立大学が疲弊しつつあることについては、この拙文を読んでくださっている方であれば、周知のことかと思います。例えば、週刊東洋経済2018年2月10日号の特集、毎日新聞2018年4月からの特集が以下のリンクにあります。

研究劣化の真相 | 大学が壊れる | 週刊東洋経済プラス | 経済メディアのプラス価値

幻の科学技術立国 - 毎日新聞

 あるいは、「日本の研究力失速」について、鈴鹿医療科学大学学長・豊田先生のブログを読まれた方も多いかもしれません。

ある医療系大学長のつぼやき

 ここでは、これらの観点を踏まえながら、小職個人が何故、国立から私学に移ったのかをお話したいと思います。

 大学教育は、学部教育と大学院教育があり、それぞれの側面で考えることがありました。まず、学部教育ですが、皆さん(とくに受験生や在学生)に知っておいてもらいたいのは、ここで私がイメージしている大学は、下の写真における気球のようなものだということです。

http://4.bp.blogspot.com/-pymuevw1S-Y/UA7PIjG6suI/AAAAAAAADLY/UjnRntHtSWI/s320/Hot_Air_Balloons_iStock_000009931941XSmall.jpg

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 気球一つ一つが大学で、上下は、いわゆる受験力(受験で高得点をとる力)です。受験力は、個人の能力の一面に過ぎず、それぞれの人としての力は、まったく別であることはいうまでもありません。ここでは受験力だけで話をしますが、人間力や社会での活躍とは関係なく、独立したものであるのを前提としていますので、誤解ないようお願いします。

 大規模な大学であれば、在学生たちの集団で、受験力は上下にかなりばらついています(気球は大きく、縦にも広がっているイメージ)。学部入学者数をみれば、早稲田1万、明治7千強、慶応・法政7千弱、中央6千、立教5千、阪大・東大・京大3千前後です。数千人もいれば、群を抜いて受験力の高い学生もいますし、いわゆる「偏差値」付近の学生、低い学生もいます。

 入試というのは、ボーダーライン付近に多くの受験生がひしめき合っていて、合否判定は、コンマいくつの僅差です。コンマいくつということは、たまたま、どこかで一小問正解したか否かで、決定的な差になってしまうということです。結果は「合格」か「不合格」かの二択で、天国と地獄になってしまいますが、実際には、ある大学のトップ合格者たちとボーダー合格者たちとには、受験力で大きな差がある反面、ボーダー合格、不合格は「時の運」としかいえないものです。「偏差値」というのは、気球の重心であって、実際には、上述した私学であれば、かなりの学生たちの受験力は重なり合っていると考えた方が適切です。

 ですから、とくにそれぞれの大学の受験生、在学生、卒業生に言いたいのは、入試は時の運が大きいのであって、自分の入学した(する)大学との縁は大切にして欲しいということです。気球の中でどう過ごし、気球自体をどう動かすかは、在学生、卒業生の活動如何だと思います。

 さて、このように大学を気球に例えたとして、国立大学が直面している大きな課題の一つは、教育環境の整備だと思います。国立系は概して、施設・設備・システムについて、維持管理、修繕、更新、リノベーションの費用があまり考慮されません。そこで、新規に施設・設備・システムができたときはよいのですが、アップデートや修繕がままならず、新たに予算がつかないと徐々に時代遅れとなっていきます

 受験生は、是非、実際に大学に足を運んで、教室、図書館、各種施設を実際にみてください。おそらく、国立系は歴史を感じるでしょうが、老朽化したままという可能性もあることを認識しておいた方がいいと思います。さらに、21世紀の高等教育で最も重要なのは、情報ネットワーク環境です。私は2012年度にYale大学に客員研究員として滞在し、Harvard大学にも研究の一環で訪れましたが、その時点で、すでに両校では、キャンパス全域でWiFi接続が完備され、教室でもノートPC、タブレットを広げて授業を受ける形態が一般化していました。

 現在は日本の国立系もだいぶ整備されてきていると思いますが、キャンパスが広い分、全域整備には時間がかかっています。その点、例えば、立教池袋キャンパスは、相対的に狭いことが幸いし、全域でWiFiネット接続が利用できます。さらに大切なのは、教学支援システムです。立教の場合、Google社のG Suiteを全面的に導入しており、メール、ドライブ、ドキュメント、カレンダー、フォームなどの機能が、すべて容量上限なく利用可能です。

 立教での私の授業、演習はすべてペーパーレスです。ここでは演習を例にとります。演習で必要な文献、資料は、すべて、Google Driveでゼミ生たちと共有します。演習室には、貸出用PCが配備されているので、ゼミ生たちは、各自のPCを持参するか、演習室のPCを利用します。レジュメもDriveにあげてもらい、私のPCからプロジェクターに投影するとともに、各自のPCで閲覧してもらいながら、ディスカッションをします。社会調査アンケートを検討するときも、Google Formを利用し、各自ないしグループ毎にフォームを開き、共同編集をリアルタイムで遂行することができます。こうした演習形態は、私が実際展開したいと考えていたのですが、国立時代には実現できなかったものです。

 講義系の場合には、Blackboardという授業支援システムを利用し、数百人規模の履修者でも、教材配布、小テスト、リアクションペーパーなどはBlackboardですべて行います。また、類似性判定機能があり、レポート類の不適切な引用等を容易にチェックすることが可能です。国立系の場合には、博士論文では類似性判定機能利用が必須ですが、それ以外は容易に利用できる環境にはないと思います。

 ちなみに、2018年3月に公開された、私と同僚の井川教授との学部講義科目に関する対談が、立教大学教育開発・支援センターのニューズレター(MOVE)に掲載されています。よろしければ、ご高覧ください。

http://www.rikkyo.ac.jp/about/activities/fd/qo9edr0000005dbr-att/mknpps000000gu7p.pdf

 さて、話を戻すと、このままでは、国立系は、学生、教員は一流でも、設備は二流ということになりかねない。私学はこうした点で、積極的に取り組んでいると感じます。昭和であれば、「ボロは着てても心は錦」でよかったかもしれません。しかし、すでに2020年代になろうとしている時期、国立がグローバルに戦うには、教育設備も先端的であるべきだという認識が醸成されることを私個人としては切望しています。

 学部についてだけでだいぶ長くなってしまったので、大学院については、記事を改めて書きたいと思います。最後まで目を通してくださり、ありがとうございました。