木村忠正の仕事部屋(ブログ版)

ネットワーク社会論、デジタル人類学・社会学研究者のブログです。

機械とヒト

 人工知能についての議論が活発になっています。

 わたしは、1980-90年代、「認知革命」=第二次AIブームと言われた時期に、「認知人類学」という分野に興味を持ち、人類学におけるもっとも基盤となる専門分野にしました。

 University at Buffaloの指導教員であるCharles Frake先生は、アメリカにおけるethnoscience(その後「認知人類学」へと発展する領域)第一人者の一人で、「認知意味論」で最も優れた研究者の一人であるLeonard Talmy先生(大著"Toward a Cognitive Semantics"の著者)が、Buffaloの言語学部にいらっしゃり、創設された「認知科学研究センター」のセンター長を務めていました。わたしは、そのセンターのRA(Research Assistant)もさせてもらい、Frake先生、Talmy先生には本当にお世話になりました。

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Buffaloでの指導教員で大変お世話になったFrake先生

 認知科学に関心を持っている社会科学者の一人として、今回のAIブームをみると、深層学習による自律的概念形成力をAIが持つようになったことは、やはり、一つの大きなブレイクスルーだと思います。

 他方、囲碁や将棋のAIをみると、改めて「機械とヒト」との関係について、ヒトは、自分たちと同じレベルに達するか達しないかまで機械が発展したときに、一番驚き、興奮するが、自分たちのレベルを越えてしまうと、興味を失うと感じています。

 ウサイン・ボルトと自動車を比べてみましょう。いくら人類最速のボルトといえど、100メートル走で、スポーツ仕様軽自動車にすら容易に負けてしまいます。あるいは、北島康介競艇用ボートを比べてみても同じことです。北島選手は200メートルを2分以上かけて泳ぎますが、競艇用ボートであれば10秒もかからない。ですが、私たちは、ボルト選手の走り、北島選手の泳ぎに感動し、大きな声援を送るのです。

 囲碁、将棋も同じで、ちょうど、AIの能力がヒトに追いつき、追い越そうとしていたために、私たちは興奮したり、危機感を感じたりしましたが、ヒトがAIに太刀打ちできなくなって、AI同士勝手にやってくれ!という状況にまでなれば、私たちは、ヒト対AIに関心を失い、プロ棋士同士の闘い、羽生対藤井に熱くなるのだと思います。

 知性というヒトのみが高度に発達させてきた能力が機械にとって代わられるという意識が、AI脅威論にはあると思いますが、すでに記憶、パタン認識、微細な知覚など、ヒトの知性をはるかに凌ぐ機械はいくらでもあります。すると、自らの判断、意思をAIが持つようになることが、次の危惧となるでしょう。この点が、今後の大きな課題だと思います。

 上述のように、一方で、ヒトは、ヒトと非ヒトとを区別し、ヒトに大きな関心を持つよう進化していることは間違いありません(また、ヒトの中でも「ヒトデナシ」を識別しようとする能力も発達させてきていると思います)。「心の理論(他者の心を措定し、推論する能力)」「感情」「身体」などがヒトがヒトであるために重要であり、AIがこうした要素を獲得するには、まだまだ時間がかかる(あるいは、原理的に獲得しうるかについても議論の余地がある)でしょう。

 他方、ヒトの中に、AIを用いて、他の人々を支配しようとする試みが現実的危惧となる可能性もあります。また、身体・感情を持ったヒトが、AIを自らに取り入れる(サイボーグ化、ハイブリッド化)ベクトルも現実化してきました。ヒト、ヒトの社会・歴史は地層体であり、古い地層もいまだに機能する一方、新たな地層が加わって、より複合的、多元的になっています。ポスト冷戦期、デジタル、ネットワーク、ロボティクスは新たな地層を次々と生み出し、その目まぐるしい変化に、私たちは積極的に適応していく必要があると強く感じています。それが、社会情報学やデジタル社会学・人類学、科学技術社会論の新たな地平を構成していると思います。

 最後まで目を通してくださり、ありがとうございました。