木村忠正の仕事部屋(ブログ版)

ネットワーク社会論、デジタル人類学・社会学研究者のブログです。

「キュレーション型剽窃」の悪質さ~若手研究者研究倫理の現状~

キュレーション(Curation)世代にとって剽窃(plagiarism)は当たり前なのか?(怒)

 

 わたしは、ある公益財団法人が主催する大学(院)生を対象とした顕彰論文事業の審査委員長を務めています。
 今年度の審査で、最終論文選考に残った応募論文のうち、2件で、悪質と判断される「剽窃(plagiarism)」を発見しました。
 2016年11月、キュレーションサイトWelqが大きな問題となりましたが、ネット上に学術的情報(もちろん玉石混交)も溢れかえり、いつでもどこでもアクセスできる状況で育った学生たちの中には、レポート、論文において、参照した資料・文献に言及しないで「キュレーション」することを当然と思っている学生も少なからずいるように思われます。
 しかし、他者が苦心して紡ぎだした言葉を、きちんと言及せずに、あたかも自分が紡いだかのように書く行為は、「剽窃(plagiarism)」であり、学術的行為として唾棄すべきものです。Google Scholarという学術論文検索サービスのトップページには、"Stand on the shoulders of giants" (「巨人の肩の上に立つ」)という言葉があります。この思想は中世にまで少なくとも遡り、Issac Newtonが1675年にRober Hookeに宛てた手紙において、"if I have seen further, it is by standing on the shoulders of giants." と書いたことも広く知られています(https://digitallibrary.hsp.org/index.php/Detail/objects/9792にデジタル化された手紙と説明があります)。学術的活動は、先人たちの無数の知的活動の上に成り立っており、剽窃行為は、そうした知的活動の積み重ねを蔑ろにする知的軽薄さ、愚かさを露わにしているのです。 

 今回、顕彰論文に応募するという行為を行い、しかも、その内容自体は、最終選考まで残ったという意味では、優れた部分のある論文を投稿していながら、実は、「剽窃(plagiarism)」しているという学生が2名もいたことに、わたしは慄然とし、不気味さと静かですがこの上もない深い怒りを感じました。

 まず、どんな手口か、そして、小細工はいとも簡単にバレル現状があることを、具体的に示したいと思います。

 

図1 「キュレーション型剽窃」応募論文・類似性判定結果(例1)

 

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図2 「キュレーション型剽窃」応募論文・類似性判定結果(例2)

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 図1、図2が、問題の2つの論文の一部で、「類似性判定ソフト」適用の結果を示しています。応募者の今後のことも考え、文章自体はわからないような画像処理をしました。両方とも、全体の一部で、これ以外にも「キュレーション」があります。また、図2の場合、段落と段落が離れている部分は、該当箇所を少し飛ばして中略状態となっているところです。

 色が異なるウェブ情報源であることを示しており、ところどころにある四角い部分(文章自体の少し上にある)は、数字が白抜きになっていて、該当する具体的なウェブ上のページにとんで確認できるようになっています。

 図1の学生は、論文全体の枠組みとなる理論的展開の部分で、主として2つの資料を用いていましたが、どちらも、本文中、参考文献に、一切言及がありませんでした。

 図2の学生は、図からも明らかなように、論文全体で、何種類もの資料をつまみ食いしていますが、こちらも、本文中、参考文献に、一切言及がありません。

 これら「キュレーション型剽窃」がとくに悪質と感じるのは、他人の文章をそのままパクる部分もありますが、元の文章の一部を変えたり、つまみ食いをしたりすることで、「自分の文章だ」感を出そうとしているように見える点にあります。今回の審査論文ではないのですが、以前わたしが発見した本当に悪質なものは、ある論文をほとんど丸ごと用いていながら、徹底的に切り刻んで自分の論文としているものがありました。

 「丸写し」ももちろんダメですが、わたしのようなデジタル移民にとって、「キュレーション型剽窃」はより「悪質」に思えます。しかし、上記のような例をみるにつけ、デジタルネイティブ世代では、デジタル化された元の文書をアレンジして、自分のものにすることに抵抗感や罪悪感がないのかもしれません。切り刻むのは、やはり、どこかで自分のものにしなければという意識が働いているように思いますが、そうしてしまえば、問題ないのだといった認識があるようにも思われます。

 しかし、まず、若手研究者、学生の皆さんに強調したいのは、「キュレーション型剽窃」は、やはり、「剽窃」であり、「学術倫理としてやってはいけないことだ」という認識をまずしっかりもってもらいたいのです。

 剽窃をした学生の言い訳をきくと、「自分の思っていたことが書いてあった」といったことをいう場合があります。ですが、この言い訳は、「自分が(漠然と)思っていることを、具体的言葉にするのが、いかに大変か」ということであり、自分が剽窃した相手が、どれだけその表現に至るまでに考えたか、という想像力が一切欠けているのです。

 レポート、論文を自分の言葉で書くことの大変さは、皆さん、十分身に染みて分かっていると思います。とすれば、安易に剽窃などすべきでないことも分かるはすです。その言葉を紡いだ他者に敬意をもって、きちんと言及する必要があるのです。

 「丸写し」してきちんと、誰がどの論文(書籍)のどのページで言ったのかを明示すればいいのです。それを踏まえて、自分はどう考える、という論(こちらが主で、引用はあくまで従であることもいうまでもありません)を展開するから「論文」となるわけです。
 丸写しでなく、自分が要領よくまとめた場合も、誰々のどの論文(書籍)で言われていることを自分なりにまとめる、と明示すればいい。それを一切言及せずに、適当にキュレーションして、自分の文章としてしまったら、それは元の著者への敬意を欠いた失礼な行為(著作権法違反にもなります)であり、けして行ってはならないのです。

 今回の上述2投稿論文は、もともとの著者たちを無視するという侮辱を行っているとともに、そうした論文で顕彰受賞しようとしたという意味で、審査委員も侮辱していることになります。おそらく、応募者の若手研究者たちには、そうした意識はないのでしょう。しかし、ないままに、学術研究の道にこのまま入っていくと、あとでとんでもないことになります。もし、応募者で、この拙文を読んで、心当たりのある人がいたら、これを機会に考えを改めてください。

 そして、もう一点、若手研究者、学生の皆さんに強調したいのは、こうした稚拙な狡賢い行為(と本人には自覚がないかもしれないですが)は、上述のように、現在の技術で、いとも簡単に検知ができるということです。これはいくら強調しすぎても、し過ぎることはありません。

 最後に、大学関係者、各種顕彰論文関係者の方々には、こうした現状を踏まえ、博論はもとより、修論、顕彰系審査対象論文で「類似性判定」を必須にすべきだという認識を共有し、実行に移す体制を構築してもらいたい思います。野放しにしない姿勢を学術界が示すことが、結果的に、良質な若手研究者を育てることになります。ザル審査をしていたら、せっかくの才能ある若手たちに、「キュレーション型剽窃」をしていいのだ、それでやっていけるのだ、という間違った認識を与えてしまいます。コストがかかるとすれば、公的組織が連携する必要があるかもしれません。
 わたしが関わっている規模の小さな顕彰論文審査ですら、ここで述べたような論文が投稿されました。この賞には7年以上かかわっていますが、こうした事態は初めてです。スマホ世代が大学生となり、「キュレーション型剽窃」傾向は今後拍車がかかると思われます。未然に食い止める必要性があることを痛切に感じています。もう一点、今回の最終審査には留学生のものも2点含まれていましたが、どちらも、引用はきちんと引用と明示し、自分の論を展開している見事なもので、上述の2論文は、日本国内の学生だったことも付け加えたいと思います。本当に、こうした剽窃論文を顕彰論文として堂々と応募してくる時代になってしまっていることに、哀しさすら覚えます。

 最後まで目を通してくださり、ありがとうございました。