木村忠正の仕事部屋(ブログ版)

ネットワーク社会論、デジタル人類学・社会学研究者のブログです。

「ポストコロナ社会」を構想する視座

 「「失われた30年」(1991年~2020年)とは何か?」という拙ブログ記事で、アメリカ留学からみたときにも、「失われた30年」は、日本社会がグローバル社会で相対的地位を低下させてきた現実であることを議論しました。

 ただ、それは、量的存在感のことであり、むしろ、冷戦時代の高度成長・バブル期に形成された日欧米3極構造の幻影という頸木(これが、「デジタルネイティブ(1980年生以降)」よりも前、団塊ジュニアまでの世代=依然として日本社会の6割以上を占め、社会をコントロールしている層に根深く刻まれている幻影)から私たちを解放し、21世紀の日本社会を構想することが必要だと思います。ここでは、ユヴァル・ハラリの世界的ベストセラー『ホモ・デウス』を手掛かりに「ポストコロナ社会」を構想することを介して、これからの日本社会の方向性を考えてみます。『ホモ・デウス』を手掛かりにした「ポストコロナ社会」の構想というのは、審査委員長を務めている公益財団法人昭和池田記念財団の学生論文賞冊子向けに小文を執筆したのがきっかけです。この記事は、ブログで公開することについて、財団の承諾を得て、小文をもとに発展させたものです。十分にまとまった思索ではなく、思い付きの域を出ないものですが、お付き合いいただく方がいらっしゃれば、幸いです

 


 2020年代が新型コロナパンデミックで幕を開けることになると誰が予想したでしょう。

 周知のように、21世紀における傑出した人文学者であるユヴァル・ハラリは、世界的ベストセラー『ホモ・デウス』において、人類が長年にわたり対峙してきた、「飢饉」、「疫病」、「戦争」という3つの難題を、人類は20世紀克服しつつあり、21世紀の人類は、アルゴリズム的世界観、人間観をもとに、「不死」「幸福」「神性」の3つの難題を追求するとの議論を展開しました。

 新型コロナについても、ハラルは、洞察力に富んだ発言をしていますが(例えば、河出書房新社のウェブサイト(http://web.kawade.co.jp/bungei-cat/bungei-2/)では、海外新聞・雑誌へのハラルの寄稿の和訳を読むことができます)、『ホモ・デウス』の議論の枠組みをもとに考えれば、克服したと思われた「疫病」は、けして過去のものではなく、20世紀までの遺物にはなっていなかったことを改めて人類に自然が突き付けたということでしょう。そして、新型コロナを巡る闘いが、領域国家に境界線を改めて強めるとともに、人類社会の枠組み自体をめぐるイデオロギー対立も20世紀の遺物ではないことが露呈しました。

多数の人々が現実に血を流す世界規模の「戦争」は回避され続けるかもしれませんが、宇宙空間、ネット空間を含めた「超限戦」、社会的生活空間全体が絶えず戦場と化す社会が到来しているようにも思われます。そして、人口増加と自然環境の悪化は、新型コロナによって一時的にブレーキがかけられても、食料、水資源を巡る争いは水面下で絶えず蠢いています。

 つまり、ハラリの議論の枠組みのように、20世紀までの問題が克服され、21世紀からの挑戦が生起しているというよりも、20世紀までの問題は、依然として人類にとって脅威であり、それが21世紀の欲望と複合することで、人類社会は、新たな課題に立ち向かうことになるでしょう。

 ハラリが21世紀に人類が追求する挑戦とした「不死」「幸福」「神性」は、これまでの人類においても、やはり強く希求されていたものです。ただ、従来は「夢物語」であった欲望の対象が、テクノロジーによって、実現可能かもしれない。ここで大きな社会的課題は、その実現可能性が、「すべての人類にとって」、ではなく、「一部の人類と、人類とテクノロジーが組み合わされた新たな人類(ホモ・デウス)にとって」かもしれないという点です。実際、多様なインセンティブ、利便性を与えて、人々にテクノロジー利用を促し、そのデータを駆使して富を生み出し、支配する構造が現実に拡大しています。

 「ポストコロナ社会」は、人々が直接接触することを回避する傾向を促し、デジタル空間、仮想現実(VR)、アナログ現実空間とデジタル仮想空間とが混在する拡張現実(AR)が、わたしたちの日常生活空間に深く組み込まれていくと思います。このような「ポストコロナ社会」において、「不死」「幸福」「神性」を、一部の人々のみが可能性を追求、享受できる社会とするのか、多くの人々に可能性を拓くのかは、それぞれの社会が考えることです。日本は、21世紀グローバル社会において、量的には縮小していきますが、相対的少数でありながら、一定規模の社会集団、市場規模、技術開発力を維持できることもまた明らかです。そこで、グローバル社会において、日本社会が社会総体として「ホモ・デウス」を積極的に目指してはどうでしょうか?

 少子高齢化の深刻化から、介護、育児、モビリティの分野で、AI、ロボティクス、ネットワークの進展は不可避です。そうした社会的ニーズをドライブとしながら、デジタルネットワークテクノロジーを活用し、「不死」「幸福」「神性」を積極的に目指す社会。日本社会はすでに平均寿命が世界で最も長くなっています。おそらく、「神性」が鍵で、「ホモ・デウス」的「神」は、強い個性、我があり、思うがままに振る舞う存在です。もちろん、社会的動物である以上、各自がただ我を張るだけではうまくいきません。さらに、「ホモ・デウス」の「神性」で重要となるのは、「テクノロジーと接合することによる人類の増強」という点です。社会にその力を還元できるような個人の願望、新たな力を積極的に伸ばそうとすること。ここで小職がイメージするのは、藤井聡太九段を筆頭とする将棋界の革新です。拙ブログ記事(「機械とヒト」)でも議論したように、ヒトは、AI同士の闘いにはさほど興味は持ちません。ヒトがAIと組み合わさり、そうしたホモ・デウス同士の切磋琢磨に熱狂するのです。

 こうした人類の増強という視点を社会に拡大するには、教育を大きく変える必要があるでしょう。そして、多くの人が「神性」を目指し、実現できるには、多様性、多元性を社会的に認める寛容性が必須であり、それが「幸福」につながると思うのです。

 今回も拙文にお付き合いくださり、誠にありがとうございました。