木村忠正の仕事部屋(ブログ版)

ネットワーク社会論、デジタル人類学・社会学研究者のブログです。

拙著『ハイブリッド・エスノグラフィー』刊行

この記事は、拙著のパブリシティを意図しております。お読みいただく場合には、予めご承知おきください。

 2018年11月1日付で、『ハイブリッド・エスノグラフィー~ネットワークコミュニケーション(NC)研究の質的方法と実践』を新曜社より上梓しました。

新曜社サイトでの拙著の紹介

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https://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1583-3.htm

http://shin-yo-sha.fan.coocan.jp/book/1583-3.pdf

では、「はじめに」の抜粋もあり、拙著の立脚点、目論見の大要をご覧いただけますので、是非お目通しいただければと思います。

 抜粋にもありますが、拙著は、次の3つの関心領域が重なる合う地点での、小職の調査研究活動の積み重ねです。

  1. ネットワークコミュニケーション研究とそこでの質的(エスノグラフィー)アプローチの果たす役割
  2. 質的研究、エスノグラフィーに関する方法論的議論(他/多分野におけるエスノグラフィーへの関心の高まりと人類学における懐疑・模索)
  3. デジタルネットワーク拡大に伴う方法論的革新、とくに、〈定性〉〈定量〉を対称的に扱い、複合的に調査、分析を行う方法論(これを本書は「ハイブリッドメソッド」と呼ぶ)の必要性。

 つまり、拙著は、まず第一に読者として、「ネットワークコミュニケーション」、「エスノグラフィー」、「定性・定量混合(融合)方法論(mixed methods)」のいずれかのクロスに関心ある研究者を想定しています。

 本書に至る道筋は長く、その発端となる研究は2007年度の科研費(「サイバー・エスノグラフィーの方法論的基礎に関する調査研究」)、本書の構想を新曜社の塩浦社長にお話ししたのが2010年のことです。

 その後、紆余曲折、「遅々として進み」、本文を一通り執筆し終えたのが2017年8月。なるべく早くと思っていたのですが、かけた歳月の分、内容は多岐にわたり、分量ばかり多くなり、なかなか編集、校正を終えられず、今回、ようやく上梓に漕ぎつけました(ほんとうに、実感として、「漕ぎつけた」感じです)。

 拙著は「学術書」で、いかにも生硬な学術的議論を展開しておりますが、広く一般の方にも関心を持っていただけそうなのが、第10章「ネット世論の構造」です。 第10章に関連しては、すでに、いくつかの論稿を公刊しております。ネットでもアクセスできるものもありますので、ご覧いただければ幸いです。 

 上記論稿では、拙著がまもなく公刊されることを前提に、拙著を参照しております。とくに、具体的なニュースサイトコメント欄の精緻な分析は、拙著第10章でのみ展開しております。例えば、 

  • コメント投稿者が「尖った」少数と「穏やかな」多数に分かれ、「尖った」少数については、PRS(Positive Response Seekers、自分のコメントへの「加点」を求める投稿者)とIA(Insulting Attackers、罵詈雑言を投げつける投稿者)の具体的な様子を明らかに。 
  • 投稿者IDと投稿IPアドレスとのネットワーク分析 
  • 具体的にどのような記事に対して、いかなる投稿がなされたのか?「非マイノリティポリティクス」と筆者が呼ぶに至る、ネット世論の主旋律を構成する政治的な態度の具体的様相

といった分析です。 これだけでも拙著を別途見ていただく価値があると考えておりますが、「ネット世論」研究以外にも、ネットワーク・コミュニケーション研究という文脈における定量・定性を組み合わせた方法論と、若手研究者を念頭においた、具体的なリサーチデザイン、「ハイブリッド・エスノグラフィー」という方法、「ビジネスエスノグラフィー」、日米デジタルネイティブ比較により浮かび上がる日本社会の対人関係ネットワーク規模の分析、など、それぞれに、小職なりのこれまでの研究をできる限り詰め込んでおります。

 また、拙著は、1頁の収容字数をできる限り増やし、ソフトカバーにするなど、数多くの工夫をして、少しでも手に取っていただきやすい水準になるよう努力しました。 ここ10年程、格闘してきた方法論に関して、小職なりには、まとめることができたと感じております。皆さまには、何かの機会がありましたら、書店・図書館等で手に取っていただければ幸いです。

 最後まで目を通してくださり、誠にありがとうございました!

World Internet Project フランス国際会議

 WIP(World Internet Project)は、1999年から活動を開始し、2017年9月現在で東欧、中東、中南米地域も含む39カ国の研究チームが参加する国際的なインターネット利用行動調査プロジェクトです。

https://www.worldinternetproject.com/

 WIP日本チームは2000年からWIPに参加しており、日本のインターネット利用実態について調査研究を行っています。

 WIPは毎年国際会議を開催しており、2018年は、この7月2日~6日、フランスで行われました。日程の関係で、パリの行事には出席できませんでしたが、小職は、Brestでの会議に出席し、2つの発表を行いました。

 小職は日本チームの一員として10年近く活動していますが、WIP国際会議に出るのは初めてでした。この国際会議は、通常の大規模な学会のように、たくさんのプログラムが並行して走るのとは違い、30人程度の参加者全員がすべてのセッションに参加し、Brestだけでも3日間、時間と場所をともにして、研究発表、プロジェクトの進め方に関する議論を、ひざを突き合わせて行います。長年にわたる国際共同プロジェクトで、互いによく知っている研究者たちと同時に、小職のように初めて参加する研究者たちもいますが、会議を通して、交流を深め、互いをよく知ることができます。

 今回は10か国から研究者が集まり、それぞれの研究成果を共有しましたが、強く印象づけられたのは、スマホの普遍性と利用の個別性です。スマホは、いずれの主要産業国においても、成人での利用率8割から9割に達しており、2010年代、私たちの生活を大きく塗り替えてきています。ただ、具体的にどのようなアプリ、利用法が、どう拡がるかは、社会文化によって大きく異なります。ここでは、印象深かったスウェーデンチームの報告を少し紹介します。
 下図をみてください。これは、

cartina.se

 にある図ですが、年代毎の主要ソーシャルメディア利用率です。
 それぞれのグラフの左から、
YoutubeFacebookSkypeInstagram、Snapchat、LinkedIn、WhatsApp、TwitterPinterestReddit
ソーシャルメディアを表し、
利用率の縦棒で、上がやや薄く、下が濃い色になっていますが、上部が1日1回未満、下部が1日1回以上の割合を示します。

 

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 Youtubeが75歳までで最も利用率が高く、とくに12~25歳では利用率100%、毎日アクセスが7割~9割と高頻度利用ですが、20代後半からは毎日利用は激減します。Facebookは高齢者でも半分程度の利用率があり、しかも毎日アクセスする人が(10代前半を除いて)利用者の半数~8割程度を占めています。個人的にはInstagramが中高年層にまで利用されていることと、Snapchatが10代から30代前半Twitter以上に利用率が高いことが意外でした。

 話をきくと、Instagramは、日本のように、少し着飾った、晴れのメディア(日本では、「インスタ映え」のように、インスタにやや非日常性を求める面があると思います)ではなく、日常的な写真共有サイトとして利用されているようです。Snapchatは日本ではやらないのがむしろ謎で、世界的に見て10代を中心に利用されていると思います。また、面白かった逸話は、発表したスウェーデンの研究者の場合、大学生のお子さんと、FacebookInstagram、Snapchatではつながっているそうですが、Twitterは、ブロックされたそうです。それぞれの社会で、多様なソーシャルメディアが、独自の社会文化的文脈を形成し、人々に利用される様子は、文化人類学が知的出自である小職にとって、とても興味深いものです。

 ところで、Brestはパリから600キロほど西、フランスの西端で、軍港がある人口14万人ほどの穏やかな街でした。日本人には一度も会いませんでしたが、Brestにも、面白日本語表記はありました。「Superdry」というスポーツウェアのブランドの店ですが、写真にあるように、「極度乾燥(しなさい)」という日本語が添えられています。

 

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 また、ココロ温まる出来事もありました。
 ホテルから会議場まで、2キロほどですが、トラム(路面電車)がちょうどうまい具合に走っていたので、トラムに乗ることにしました。ところが、乗車券をどこで買って、どう乗ればよいか分からず、駅で待っている中年男性に教えてもらうため、声をかけました。
 彼は「何回乗るのか?」ときくので、「1度です」と答えると、彼はジャケットのポケットから、乗車券(紙のカード)を出して、「これをあげるから、使って」と言いました。
 話を聞くと、彼のカードは「10回券」で1回分残っていました。そこで、あと1回分を小職にくれたのです(1回券だと1.6ユーロ、10回券だと1回分は1.25ユーロ)。
 さて、2日後、少しずれた時間帯で、またトラムに乗ろうとしていると(今回は勝手がわかっていますから、乗車券はすでに持っています)、あの男性がまた現れたのです!小さい街で、通勤時間帯ということが幸いしました。嬉しくなって、写真を一緒に撮らせてもらいました!(あえて、supersmall(極度小型)にしてます)

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 人類は「社会的動物」です。社会=国民国家の役割は依然として大きいわけですが、人類社会として、互いを尊重し、ヒト同士が交流することもまたとても重要であることを、今回改めて認識しました。文化人類学徒として、多文化社会、共生社会を自明視していた面もあるのですが、21世紀、グローバル化、ネットワーク化の進展は、異なる社会集団同士、互いに差異を明確にし、「自社会ファースト」の傾向もまた強めているように思います。やはり、一人ひとり、多様な人々と交流することが、国際社会を形成する礎であり、小職のゼミ生たち、立教の学生たちはじめ、内向きといわれる現代日本社会の若い人々には、積極的に国外に出かけて、交流してほしいと強く願います。

 今回も、最後まで目を通してくださり、ありがとうございました。

 

 

「キュレーション型剽窃」の悪質さ~若手研究者研究倫理の現状~

キュレーション(Curation)世代にとって剽窃(plagiarism)は当たり前なのか?(怒)

 

 わたしは、ある公益財団法人が主催する大学(院)生を対象とした顕彰論文事業の審査委員長を務めています。
 今年度の審査で、最終論文選考に残った応募論文のうち、2件で、悪質と判断される「剽窃(plagiarism)」を発見しました。
 2016年11月、キュレーションサイトWelqが大きな問題となりましたが、ネット上に学術的情報(もちろん玉石混交)も溢れかえり、いつでもどこでもアクセスできる状況で育った学生たちの中には、レポート、論文において、参照した資料・文献に言及しないで「キュレーション」することを当然と思っている学生も少なからずいるように思われます。
 しかし、他者が苦心して紡ぎだした言葉を、きちんと言及せずに、あたかも自分が紡いだかのように書く行為は、「剽窃(plagiarism)」であり、学術的行為として唾棄すべきものです。Google Scholarという学術論文検索サービスのトップページには、"Stand on the shoulders of giants" (「巨人の肩の上に立つ」)という言葉があります。学術的活動は、先人たちの無数の知的活動の上に成り立っています。剽窃行為は、そうした知的活動の積み重ねを蔑ろにする知的軽薄さ、愚かさを露わにしているのです。 

 今回、顕彰論文に応募するという行為を行い、しかも、その内容自体は、最終選考まで残ったという意味では、優れた部分のある論文を投稿していながら、実は、「剽窃(plagiarism)」しているという学生が2名もいたことに、わたしは慄然とし、不気味さと静かですがこの上もない深い怒りを感じました。

 まず、どんな手口か、そして、小細工はいとも簡単にバレル現状があることを、具体的に示したいと思います。

 

図1 「キュレーション型剽窃」応募論文・類似性判定結果(例1)

 

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図2 「キュレーション型剽窃」応募論文・類似性判定結果(例2)

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 図1、図2が、問題の2つの論文の一部で、「類似性判定ソフト」適用の結果を示しています。応募者の今後のことも考え、文章自体はわからないような画像処理をしました。両方とも、全体の一部で、これ以外にも「キュレーション」があります。また、図2の場合、段落と段落が離れている部分は、該当箇所を少し飛ばして中略状態となっているところです。

 色が異なるウェブ情報源であることを示しており、ところどころにある四角い部分(文章自体の少し上にある)は、数字が白抜きになっていて、該当する具体的なウェブ上のページにとんで確認できるようになっています。

 図1の学生は、論文全体の枠組みとなる理論的展開の部分で、主として2つの資料を用いていましたが、どちらも、本文中、参考文献に、一切言及がありませんでした。

 図2の学生は、図からも明らかなように、論文全体で、何種類もの資料をつまみ食いしていますが、こちらも、本文中、参考文献に、一切言及がありません。

 これら「キュレーション型剽窃」がとくに悪質と感じるのは、他人の文章をそのままパクる部分もありますが、元の文章の一部を変えたり、つまみ食いをしたりすることで、「自分の文章だ」感を出そうとしているように見える点にあります。今回の審査論文ではないのですが、以前わたしが発見した本当に悪質なものは、ある論文をほとんど丸ごと用いていながら、徹底的に切り刻んで自分の論文としているものがありました。

 「丸写し」ももちろんダメですが、わたしのようなデジタル移民にとって、「キュレーション型剽窃」はより「悪質」に思えます。しかし、上記のような例をみるにつけ、デジタルネイティブ世代では、デジタル化された元の文書をアレンジして、自分のものにすることに抵抗感や罪悪感がないのかもしれません。切り刻むのは、やはり、どこかで自分のものにしなければという意識が働いているように思いますが、そうしてしまえば、問題ないのだといった認識があるようにも思われます。

 しかし、まず、若手研究者、学生の皆さんに強調したいのは、「キュレーション型剽窃」は、やはり、「剽窃」であり、「学術倫理としてやってはいけないことだ」という認識をまずしっかりもってもらいたいのです。

 剽窃をした学生の言い訳をきくと、「自分の思っていたことが書いてあった」といったことをいう場合があります。ですが、この言い訳は、「自分が(漠然と)思っていることを、具体的言葉にするのが、いかに大変か」ということであり、自分が剽窃した相手が、どれだけその表現に至るまでに考えたか、という想像力が一切欠けているのです。

 レポート、論文を自分の言葉で書くことの大変さは、皆さん、十分身に染みて分かっていると思います。とすれば、安易に剽窃などすべきでないことも分かるはすです。その言葉を紡いだ他者に敬意をもって、きちんと言及する必要があるのです。

 「丸写し」してきちんと、誰がどの論文(書籍)のどのページで言ったのかを明示すればいいのです。それを踏まえて、自分はどう考える、という論(こちらが主で、引用はあくまで従であることもいうまでもありません)を展開するから「論文」となるわけです。
 丸写しでなく、自分が要領よくまとめた場合も、誰々のどの論文(書籍)で言われていることを自分なりにまとめる、と明示すればいい。それを一切言及せずに、適当にキュレーションして、自分の文章としてしまったら、それは元の著者への敬意を欠いた失礼な行為(著作権法違反にもなります)であり、けして行ってはならないのです。

 今回の上述2投稿論文は、もともとの著者たちを無視するという侮辱を行っているとともに、そうした論文で顕彰受賞しようとしたという意味で、審査委員も侮辱していることになります。おそらく、応募者の若手研究者たちには、そうした意識はないのでしょう。しかし、ないままに、学術研究の道にこのまま入っていくと、あとでとんでもないことになります。もし、応募者で、この拙文を読んで、心当たりのある人がいたら、これを機会に考えを改めてください。

 そして、もう一点、若手研究者、学生の皆さんに強調したいのは、こうした稚拙な狡賢い行為(と本人には自覚がないかもしれないですが)は、上述のように、現在の技術で、いとも簡単に検知ができるということです。これはいくら強調しすぎても、し過ぎることはありません。

 最後に、大学関係者、各種顕彰論文関係者の方々には、こうした現状を踏まえ、博論はもとより、修論、顕彰系審査対象論文で「類似性判定」を必須にすべきだという認識を共有し、実行に移す体制を構築してもらいたい思います。野放しにしない姿勢を学術界が示すことが、結果的に、良質な若手研究者を育てることになります。ザル審査をしていたら、せっかくの才能ある若手たちに、「キュレーション型剽窃」をしていいのだ、それでやっていけるのだ、という間違った認識を与えてしまいます。コストがかかるとすれば、公的組織が連携する必要があるかもしれません。
 わたしが関わっている規模の小さな顕彰論文審査ですら、ここで述べたような論文が投稿されました。この賞には7年以上かかわっていますが、こうした事態は初めてです。スマホ世代が大学生となり、「キュレーション型剽窃」傾向は今後拍車がかかると思われます。未然に食い止める必要性があることを痛切に感じています。もう一点、今回の最終審査には留学生のものも2点含まれていましたが、どちらも、引用はきちんと引用と明示し、自分の論を展開している見事なもので、上述の2論文は、日本国内の学生だったことも付け加えたいと思います。本当に、こうした剽窃論文を顕彰論文として堂々と応募してくる時代になってしまっていることに、哀しさすら覚えます。

 最後まで目を通してくださり、ありがとうございました。

 

 

 

機械とヒト

 人工知能についての議論が活発になっています。

 わたしは、1980-90年代、「認知革命」=第二次AIブームと言われた時期に、「認知人類学」という分野に興味を持ち、人類学におけるもっとも基盤となる専門分野にしました。

 University at Buffaloの指導教員であるCharles Frake先生は、アメリカにおけるethnoscience(その後「認知人類学」へと発展する領域)第一人者の一人で、「認知意味論」で最も優れた研究者の一人であるLeonard Talmy先生(大著"Toward a Cognitive Semantics"の著者)が、Buffaloの言語学部にいらっしゃり、創設された「認知科学研究センター」のセンター長を務めていました。わたしは、そのセンターのRA(Research Assistant)もさせてもらい、Frake先生、Talmy先生には本当にお世話になりました。

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Buffaloでの指導教員で大変お世話になったFrake先生

 認知科学に関心を持っている社会科学者の一人として、今回のAIブームをみると、深層学習による自律的概念形成力をAIが持つようになったことは、やはり、一つの大きなブレイクスルーだと思います。

 他方、囲碁や将棋のAIをみると、改めて「機械とヒト」との関係について、ヒトは、自分たちと同じレベルに達するか達しないかまで機械が発展したときに、一番驚き、興奮するが、自分たちのレベルを越えてしまうと、興味を失うと感じています。

 ウサイン・ボルトと自動車を比べてみましょう。いくら人類最速のボルトといえど、100メートル走で、スポーツ仕様軽自動車にすら容易に負けてしまいます。あるいは、北島康介競艇用ボートを比べてみても同じことです。北島選手は200メートルを2分以上かけて泳ぎますが、競艇用ボートであれば10秒もかからない。ですが、私たちは、ボルト選手の走り、北島選手の泳ぎに感動し、大きな声援を送るのです。

 囲碁、将棋も同じで、ちょうど、AIの能力がヒトに追いつき、追い越そうとしていたために、私たちは興奮したり、危機感を感じたりしましたが、ヒトがAIに太刀打ちできなくなって、AI同士勝手にやってくれ!という状況にまでなれば、私たちは、ヒト対AIに関心を失い、プロ棋士同士の闘い、羽生対藤井に熱くなるのだと思います。

 知性というヒトのみが高度に発達させてきた能力が機械にとって代わられるという意識が、AI脅威論にはあると思いますが、すでに記憶、パタン認識、微細な知覚など、ヒトの知性をはるかに凌ぐ機械はいくらでもあります。すると、自らの判断、意思をAIが持つようになることが、次の危惧となるでしょう。この点が、今後の大きな課題だと思います。

 上述のように、一方で、ヒトは、ヒトと非ヒトとを区別し、ヒトに大きな関心を持つよう進化していることは間違いありません(また、ヒトの中でも「ヒトデナシ」を識別しようとする能力も発達させてきていると思います)。「心の理論(他者の心を措定し、推論する能力)」「感情」「身体」などがヒトがヒトであるために重要であり、AIがこうした要素を獲得するには、まだまだ時間がかかる(あるいは、原理的に獲得しうるかについても議論の余地がある)でしょう。

 他方、ヒトの中に、AIを用いて、他の人々を支配しようとする試みが現実的危惧となる可能性もあります。また、身体・感情を持ったヒトが、AIを自らに取り入れる(サイボーグ化、ハイブリッド化)ベクトルも現実化してきました。ヒト、ヒトの社会・歴史は地層体であり、古い地層もいまだに機能する一方、新たな地層が加わって、より複合的、多元的になっています。ポスト冷戦期、デジタル、ネットワーク、ロボティクスは新たな地層を次々と生み出し、その目まぐるしい変化に、私たちは積極的に適応していく必要があると強く感じています。それが、社会情報学やデジタル社会学・人類学、科学技術社会論の新たな地平を構成していると思います。

 最後まで目を通してくださり、ありがとうございました。

 

 

アラブの春はソーシャルメディア革命だったのか

 小職は、拙著(木村忠正(2012)『デジタルネイティブの時代』平凡社新書)序章で、「アラブの春ソーシャルメディア革命だったのか」を論じました。「アラブの春」は、ソーシャルメディアと民主主義との関係について、多様な議論を引き起こしてきています。2010年代後半、民主主義の脆弱化、権威主義の拡張、ソーシャルメディアによる世論操作などがグローバルな課題となるなかで、「アラブの春」をどのように解釈するか、そこから何を読み取るかは、いまだに大きな意味を持ちます。

 拙著は「デジタルネイティブ」に関する書物ですが、序章では、「アラブの春」について、多角的、複合的な分析を展開しており、それは、現在拡大している民主主義、権威主義ソーシャルメディア、世論操作といった議論に資するものが依然としてあると考えております。ただ、書籍全体の主題が「デジタルネイティブ」であるため、「アラブの春」に関する議論は、関心を持ちうる方々への接点が乏しいかと存じます。また、小職の現在取り組んでいる「ネット世論」研究の基盤としても重要であり、序章の第一次草稿版をAcademia.eduにアップロードしました。以下のリンクは、英語表記になっていますが、PDFファイルの中身は日本語です。
 拙著では紙幅の関係から省かざるを得なかった部分や異なる部分も少なからずあります。本稿を読み、関心をもたれた方は、拙著も読んでいただけるとありがたいです。学術論文等で言及される場合には、やはり、拙著を参照いただくようお願いいたします。

 

www.academia.edu

 

 

グローバル化の進展と文系大学院教育

この拙文も、立教大学社会学部、大学院社会学研究科に関心のある方、受験生、在学生、卒業生を念頭に書いています。この点、予め、ご承知おきください。

 4年前に東大駒場から立教社会に移る際に考えたことを、改めて振り返り、前回の記事では、学部教育について、国立系大学が直面している課題を書きました。今回は、大学院教育・研究について、考えてきたことをまとめてみたいと思います。

 図1は、2010年度の18歳人口を基点として、4年制大学入学者、4年度後(2014年度)の修士(博士前期)課程、専門職課程入学者、6年度後(2016年度)の博士後期課程入学者の概要をまとめたものです。  

 

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 図1 2010年度18歳人口を元にした大学進学率・大学院進学率の模式化

中央教育審議会・大学分科会・大学院部会(2017年5月30日)「大学院の現状を示す基本的なデータ」スライド3

 

 2010年度18歳人口122万の内、およそ半数の62万人が4年制大学に入学する計算です。この年齢集団で修士・専門職に入学するのが6.8万人(およそ18人に一人)、博士入学者が0.9万人(およそ130人に一人)。もっとも、社会人も加わっており、社会人院生数も含めれば、修士・専門職入学者は7.9万(およそ15人に一人)、博士入学者は1.5万(およそ80人に一人)です。今後も、社会に出てから大学院教育を受ける人たちが同様に出てくると考えれば、ある年齢集団が40歳、50歳になるまでには、社会人数を含められると判断し、これ以降、社会人を含めた数字で議論していきます。また、データは文系、理系両方を含みますが、拙稿の議論は、文系学術活動(+文系基盤の複合・学際系研究)を念頭においていることも予めご承知おきください。

 表1は、これまでのデータをまとめ、2010年代と比較するために、1990年前後を併記したものです。1991年度から「大学院重点化」が実施されたため、1991年度修士(当時は専門職大学院は存在せず)となるよう、1987年度18歳人口を基点とし、大学・短大入学者、1993年度博士入学者数をまとめました。

 

表1 2010年度=18歳、1987年度=18歳を基点とした大学、短大、修士、博士入学者数推移(学校基本調査、人口統計)

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 今から30年ほど前(1987年度)、18歳人口はまだ拡大期にあり、4年制大学入学者率はいまだ4分の1、女性を中心に短大進学も相当多かったことが分かります。男女別に4年制大学入学者率を算出すると、男性35%に対して女性13%、女性の短大入学者率22%程度で、4年制大学・短大を合わせると、男女とも35%程度が進学している計算となります。高等教育の大衆化が進展してきていますが、修士入学者は3.5万、約190万人の集団に対して2%に満たず、博士となると1.1万、0.6%(170人に一人)に過ぎません。大学院教育がいまだ限られ、とくに文系では研究者養成を中心としていたことが伺えます。ちなみに私は、1987年度に修士入学、89年度博士進学で、大学院重点化直前の世代となります。

 その後、18歳人口は、1992年におよそ205万人とピークを迎え、表1にあるように、20年近くたった2010年度には122万、2018年度118万とピークの6割程度になりますが、4年制大学進学率は上昇を緩やかに続けて、4年制大学入学者数は、2010年代60万人前後で一定しています。

 さて、ここで問題です。東京大学大学院の修士・専門職入学者数、博士入学者数はそれぞれどのくらいでしょう?大学教員でも意外に知らない人が多いと思います。答えは、2016年度修士・専門職3202人、博士1238人です。学部の入学者が3176人ですから、修士・専門職は学部以上の「東大生」が入学していることになります。 つまり、学部は60万人の4年制大学入学者の内、約3千人(200人に一人)が東大生に対して、修士・専門職は7.9万人の内3千人(26人に一人)、博士後期は1.5万の内1200人(12人に一人)なのです

 表2は、東京六大学と京大、阪大の8大学について、学部、修士・専門職、博士、それぞれの2017年度入学者数概数をまとめたものです。これら8大学は学部でも4万5千人、4年制大学入学者の7%を占めますが、修士・専門職になると2割、博士では4分の1近くになります。とくに、東大、京大、阪大の国立は、3大学院だけで、修士・専門職は10人に一人、博士は6人に一人にも入学者が達します。  

 

表2 東京六大学+京大・阪大の学部・修士・博士入学者数概数(2017年度)

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  ところが、さらに驚くべきなのは、東京大学の博士入学定員は1697名で、志願者数1629名、入学者1190名だったということです。修士・専門職は入学定員3228名、志願者7141名、入学者3231名と学則定員を満たしていますが、博士課程は志願者数ですら定員に達しない状況です。もちろん、これは東大に限ったことではなく、東大ですらという表現がふさわしい。私学の雄で大学院も相対的に大規模な早稲田の場合でも、学則上は、修士・専門職入学定員3800人余り、博士定員は850人程度ありますが、表2で分かるように、そこまでは達しません。立教も、修士・専門職入学定員は550人を超えていますが、2017年度入学者は411人です。

 日本の大学院教育、とくに博士に対する需要が、期待値(学則定員)よりも少ないことは間違いありません。図2は、文部科学省中央教育審議会・大学分科会(第125回、2015年11月10日)配布資料の一部です。拙文をここまで読み進められた方々は、これに類した図をご覧になったことも多いのではないでしょうか。いずれのグラフも、日本で大学院修了者が少ないことを示しています。

 

 

 

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図2 修士号・博士号取得者数の国際比較

出展:中央教育審議会・大学分科会(第125回、2015年11月10日)配布資料 資料3-3 「現在の高等教育改革の動向」関連資料と参考データ集(2/2) http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2015/11/13/1364481_09.pdf

 

 表1に示したように、1990年代に始まった大学院重点化にともない、日本の大学院教育も拡大してきました。しかし、ポスト冷戦期、グローバルな知識競争の拡大において、日本社会が後手に回っていることは否めません。表3は、1991年、2003年、2015年前後の時点における、亜欧米6か国の大学院学生数(フルタイム学生のみで、パートタイムは含まず)と人口をまとめたものです。

 

 表3 亜欧米6か国の大学院学生数(1991年、2003年、2015年前後)(データ出展:文部科学省「諸外国の教育統計」、日本と中国の大学院における在学者数の推移(1990-2011年) | SciencePortal China

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 冷戦が終結する1991年、西側世界が政治経済的にも、知識社会の面でも強い優位性を持っており、世界人口54億人の内、アメリカ2億5千万、西欧(英仏独伊蘭墺西葡ベルギー・スイス+北欧4か国)3億6千万、日本1億25百万が世界システムの中核(コア)を構成し、その中核7.35億人(世界の13%程度)の6分の1を日本が占めていたのです。大学院学生数でも、世界全体でまだ百数十万人に過ぎない中で、日本は10万人、実数で中国よりも多くの大学院生が研究に従事していたことになります。

 その後、世界人口は64億(2003年)、74億(2015年)と拡大し、先進国と新興国中間層・富裕層を合わせて30億を優に超えるとも推計されています。それに伴い、大学院教育もまた拡大の一途です。他方、日本社会は人口も横ばいから減少期に入っており、大学院生数も20世紀には拡大しましたが、21世紀に入ってからは横ばい傾向にあります。研究者数全体についても同様です。図3は、文部科学省がとりまとめた主要国・地域における研究者数の推移です(文部科学省『科学技術要覧』平成29年版、46頁)。1990年代を見れば、日本は西側世界で、欧州、アメリカに伍して第三極の地位にあったと考えられます。

 

 

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図3 世界各地域における研究者数の推移(文部科学省『科学技術要覧』平成29年版、46頁

 

 しかし、21世紀に入ると、日本の研究者数は80~85万人程度で頭打ちとなる一方、EU、アメリカ、中国が三極を構成している様子を見て取ることができます。 このように、冷戦終結期から2010年代までを振り返ると、冷戦終結まで、日本社会は冷戦構造で利益を享受していたのが、冷戦の枠組みが外れ、世界規模で優位性を巡るプレイヤーが増大していく中で、徐々に相対的地位が低下してきたと考えることができます。

 先ほど、ポスト冷戦期、日本社会は、グローバルな知識競争の拡大において、「後手に回った」といいましたが、それは、日本社会全体が、先進国の中で先頭を切って、老成社会に突入しているという歴史的文脈に大きく規定されています。 ここで私が大きな問題と感じてきたのは、私自身も含め、日本の政策立案者、大学・研究機関で中堅以上の研究者たちは、どうしても、1970年代、1980年代の日本のプレゼンス高揚(東アジア研究のハーバード大教授Vogelが1979年 ”Japan as Number One: Lessons for America” を著した)、上述のような欧米日三極構造での日本の学術というイメージに支配されているのではないか、ということです。だから、世界大学ランキングに振り回される。しかも、この「ランキング」という概念は、ピラミッド型の階層性をどうしてもイメージしてしまう。

 しかし、ここまで拡大したグローバル社会において、大学院レベルの大学院、研究機関もまた、「気球」のメタファーで考えるべきなのです。学部教育について議論した拙文で、日本の大学をピラミッド構造ではなく、気球構造でとらえる視点を提示しました。スペインの公的研究組織Consejo Superior de Investigaciones Científicas (CSIC)による"Webometrics Ranking of World Universities"(http://www.webometrics.info/)のデータにもとづけば、2017年1月現在、世界全体での「大学」数は26,368にものぼります。CSISは独自の評価方法によるランキングを行っており、ここでは、トップ1000の国別ランキングで並べ替え、高等教育機関数が4000超で世界最大のインドまでを含んだデータを参考までに載せます(表4)。

 

表4 主要国における大学数とランキング上位大学数("Webometrics Ranking of World Universities" Countries arranged by Number of Universities in Top Ranks | Ranking Web of Universities にもとづき、筆者作成

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 これだけの高等教育機関が鎬を削っているわけで、グローバルにみれば、トップ1000でも上位4%にも満たないのです。もちろん、上位層と最上位層との間には厳然とした格差があると考えることもできます。ちょうど、アメリカ社会において、21世紀、上位1割の富裕層がアメリカの富の半分を占めるに至っているが、その富裕層1割の1%(全体の0.1%)こそが富の蓄積を加速させている実体である(Piketty『21世紀の資本論』)ように、上位1000分の1(上位20数機関)の高等教育機関は、巨大な財政力を誇ります。

 表5は、米英のトップ10大学から7校(私が任意で選びました)と東大、NUSについて、学生数、年予算、基金をまとめたものです。 バークレーカリフォルニア州立大という公立校であり、基金の規模は限られていますが、それでも2000億円程度の基金があり、年予算は東大の3倍を超えます。アメリカトップ私学は基金が1兆円を超え、年利1割程度で運用しているので、運用益だけで千億円単位となります。他方、東大は病院収入(470億円程度)を含んでおり、それを除くと2000億円強に過ぎません。もし、日本の政策立案者たちが、本当に、日本の国立大学をグローバル競争で1000分の1の勝者にしようとするのであれば、こうした財政力が必要であることを肝に銘じる必要があると思います。

 

 表5 米英トップ10大学+東大・NUSの学生数、年予算、基金額 

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年予算、基金データは、各大学ホームページから筆者が整理。履修登録者数については、アメリカ各大学の多くは、https://www.collegetuitioncompare.com/による2017年秋時点でのもの。Oxford、スタンフォード、UC-Berkeley、NUS、東大は各大学HPから筆者が整理。2017年為替レート平均は、米ドル:1$=112円、シンガポールドル:S$=81円、英ポンド:1£=144円

 

  他方、上位5%あるいは10%水準で競争するのであれば、日本の有力大学は、十分な資質を備えています。ここで、実際に、研究教育にたずさわる一教員の観点から、国立系を私学と比較すると、大学院教育において、次の2点が大きな課題だと感じていました。

  1. 学部教育と同様、設備、システムに対する投資が国立系は遅れがちである。
  2. 大学院重点化により、国立系は、大学院が所属先であり、大学院定員を満たす必要性が高いため、教員―学生比率において、大学院は国立系の方が私学よりも不利になる。

 1)については、先の記事をご参照ください。 2)ですが、これは大学人以外の方にはわかりにくいかもしれません。ここでは、「社会学研究科」ということで、一橋大学院と立教大学院を比較してみたいと思います。

 国立の場合、大学院重点化で、教員の所属は学部ではなく、大学院(研究科)となりました(近年は「学術院」という統合組織にしている場合もあると思います)。大学院が基盤ですから、学則定員数を埋めないと基盤が弱くなります。他方、私学の場合、もちろん、定員を満たすことができるに越したことはないですが、大学院は規模が小さく(教員の所属も基本的には学部です)、大学院教育は一対一のきめ細かい指導が学部以上に求められるため、定員を無理に満たそうとはしません。

 表6は、一橋大学院・社会学研究科と立教大学院・社会学研究科の学生数を比較したものです(2017年度)。ここで質問です。それぞれの研究科専任教員数は何人だと思いますか?

 

 表6 一橋・社会学研究科、立教・社会学研究科の学生数(2017年度現在、各大学HP資料から筆者作成)

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  この記事を書いている2018年5月現在、一橋63人(内特任5人)、立教30人です。一橋が多様な人材を擁していることはいうまでもありませんが、立教も専任教員30名というのは、社会学研究科としては国際的にみても大きな部類だと思います。ちなみに、社会学で最も著名な大学の一つであるシカゴ大学社会学研究科専任教員は27名です(https://sociology.uchicago.edu/directories/full/sociology-faculty)。

 こうして比較すると、教員数では立教は一橋の半分ですが、院生数は一割程度です。これは私学だからこそ、大学院教育では、学生にとって資源が潤沢であることを意味します。しかも、一橋院の志願者は2010年代200名台前半で推移し、実質倍率が2倍強であるのに対して、立教院は、志願者が2018年度入学者入試では延べ100名を越え(2017年9月、2018年2月の2回実施)、実際の入学者が16名なので、倍率は5倍以上になっています。立地や就学環境を考えると、立教の方に魅力を感じてもおかしくはない状況です。

 実際、私の場合、立教に移り、大学院教育をより自分の専門に沿って、丁寧に行えるようになったと思います。もちろん、ここまでお話したことは、私個人の特殊な立場(文化人類学を出自として、インターネット研究に取り組み、ビッグデータにも積極的な研究者)による面も多いとは思いますが、日本の高等教育、大学院レベルの研究をグローバルに「気球」メタファーでとらえる視点や、国立、私立の対比など、目を通していただいた方に、少しでも参考になる部分があれば、幸いです。

 また、大学院志望学生の皆さんに言いたいのは、大学院では、指導教員との関係が本当に大切だということです。これまで議論してきたように、日本において、大学院レベルでは、「ブランド」力は実質的な意味がなくなってきています。大学院レベルの研究では、指導教員の研究力・教育力、指導教員とうまくコミュニケーションできるか、円滑な関係を築けるかが決定的だと思います。自分のやりたいことと当該研究科教員とのマッチングを真剣に考えてほしいと思います。

 最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

 

立教に移って4年度目~大学は気球・国立より優れた教育環境~

 この拙文は、立教大学社会学部、大学院社会学研究科に関心のある方、受験生、在学生、卒業生を念頭に書いています。この点、予め、ご承知おきください。

 私は2015年度に、東大駒場(総合文化研究科)から、立教社会に移りました。

 前職は、私が日本で文化人類学を学んだ大学院であり古巣です。転職を決断する際には、日本の国立大学を取り巻く環境が大きく影響したことは間違いありません。国立大学が疲弊しつつあることについては、この拙文を読んでくださっている方であれば、周知のことかと思います。例えば、週刊東洋経済2018年2月10日号の特集、毎日新聞2018年4月からの特集が以下のリンクにあります。

研究劣化の真相 | 大学が壊れる | 週刊東洋経済プラス | 経済メディアのプラス価値

幻の科学技術立国 - 毎日新聞

 あるいは、「日本の研究力失速」について、鈴鹿医療科学大学学長・豊田先生のブログを読まれた方も多いかもしれません。

ある医療系大学長のつぼやき

 ここでは、これらの観点を踏まえながら、小職個人が何故、国立から私学に移ったのかをお話したいと思います。

 大学教育は、学部教育と大学院教育があり、それぞれの側面で考えることがありました。まず、学部教育ですが、皆さん(とくに受験生や在学生)に知っておいてもらいたいのは、ここで私がイメージしている大学は、下の写真における気球のようなものだということです。

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 気球一つ一つが大学で、上下は、いわゆる受験力(受験で高得点をとる力)です。受験力は、個人の能力の一面に過ぎず、それぞれの人としての力は、まったく別であることはいうまでもありません。ここでは受験力だけで話をしますが、人間力や社会での活躍とは関係なく、独立したものであるのを前提としていますので、誤解ないようお願いします。

 大規模な大学であれば、在学生たちの集団で、受験力は上下にかなりばらついています(気球は大きく、縦にも広がっているイメージ)。学部入学者数をみれば、早稲田1万、明治7千強、慶応・法政7千弱、中央6千、立教5千、阪大・東大・京大3千前後です。数千人もいれば、群を抜いて受験力の高い学生もいますし、いわゆる「偏差値」付近の学生、低い学生もいます。

 入試というのは、ボーダーライン付近に多くの受験生がひしめき合っていて、合否判定は、コンマいくつの僅差です。コンマいくつということは、たまたま、どこかで一小問正解したか否かで、決定的な差になってしまうということです。結果は「合格」か「不合格」かの二択で、天国と地獄になってしまいますが、実際には、ある大学のトップ合格者たちとボーダー合格者たちとには、受験力で大きな差がある反面、ボーダー合格、不合格は「時の運」としかいえないものです。「偏差値」というのは、気球の重心であって、実際には、上述した私学であれば、かなりの学生たちの受験力は重なり合っていると考えた方が適切です。

 ですから、とくにそれぞれの大学の受験生、在学生、卒業生に言いたいのは、入試は時の運が大きいのであって、自分の入学した(する)大学との縁は大切にして欲しいということです。気球の中でどう過ごし、気球自体をどう動かすかは、在学生、卒業生の活動如何だと思います。

 さて、このように大学を気球に例えたとして、国立大学が直面している大きな課題の一つは、教育環境の整備だと思います。国立系は概して、施設・設備・システムについて、維持管理、修繕、更新、リノベーションの費用があまり考慮されません。そこで、新規に施設・設備・システムができたときはよいのですが、アップデートや修繕がままならず、新たに予算がつかないと徐々に時代遅れとなっていきます

 受験生は、是非、実際に大学に足を運んで、教室、図書館、各種施設を実際にみてください。おそらく、国立系は歴史を感じるでしょうが、老朽化したままという可能性もあることを認識しておいた方がいいと思います。さらに、21世紀の高等教育で最も重要なのは、情報ネットワーク環境です。私は2012年度にYale大学に客員研究員として滞在し、Harvard大学にも研究の一環で訪れましたが、その時点で、すでに両校では、キャンパス全域でWiFi接続が完備され、教室でもノートPC、タブレットを広げて授業を受ける形態が一般化していました。

 現在は日本の国立系もだいぶ整備されてきていると思いますが、キャンパスが広い分、全域整備には時間がかかっています。その点、例えば、立教池袋キャンパスは、相対的に狭いことが幸いし、全域でWiFiネット接続が利用できます。さらに大切なのは、教学支援システムです。立教の場合、Google社のG Suiteを全面的に導入しており、メール、ドライブ、ドキュメント、カレンダー、フォームなどの機能が、すべて容量上限なく利用可能です。

 立教での私の授業、演習はすべてペーパーレスです。ここでは演習を例にとります。演習で必要な文献、資料は、すべて、Google Driveでゼミ生たちと共有します。演習室には、貸出用PCが配備されているので、ゼミ生たちは、各自のPCを持参するか、演習室のPCを利用します。レジュメもDriveにあげてもらい、私のPCからプロジェクターに投影するとともに、各自のPCで閲覧してもらいながら、ディスカッションをします。社会調査アンケートを検討するときも、Google Formを利用し、各自ないしグループ毎にフォームを開き、共同編集をリアルタイムで遂行することができます。こうした演習形態は、私が実際展開したいと考えていたのですが、国立時代には実現できなかったものです。

 講義系の場合には、Blackboardという授業支援システムを利用し、数百人規模の履修者でも、教材配布、小テスト、リアクションペーパーなどはBlackboardですべて行います。また、類似性判定機能があり、レポート類の不適切な引用等を容易にチェックすることが可能です。国立系の場合には、博士論文では類似性判定機能利用が必須ですが、それ以外は容易に利用できる環境にはないと思います。

 ちなみに、2018年3月に公開された、私と同僚の井川教授との学部講義科目に関する対談が、立教大学教育開発・支援センターのニューズレター(MOVE)に掲載されています。よろしければ、ご高覧ください。

http://www.rikkyo.ac.jp/about/activities/fd/qo9edr0000005dbr-att/mknpps000000gu7p.pdf

 さて、話を戻すと、このままでは、国立系は、学生、教員は一流でも、設備は二流ということになりかねない。私学はこうした点で、積極的に取り組んでいると感じます。昭和であれば、「ボロは着てても心は錦」でよかったかもしれません。しかし、すでに2020年代になろうとしている時期、国立がグローバルに戦うには、教育設備も先端的であるべきだという認識が醸成されることを私個人としては切望しています。

 学部についてだけでだいぶ長くなってしまったので、大学院については、記事を改めて書きたいと思います。最後まで目を通してくださり、ありがとうございました。