木村忠正の仕事部屋(ブログ版)

ネットワーク社会論、デジタル人類学・社会学研究者のブログです。

noteに引っ越しました!

2018年から細々と続けてきた本ブログですが、noteに引っ越しました。

noteでは、大きく2つのブログに分かれています。

「木村忠正の仕事部屋(ブログ版)」

note.com

「RIOPO(Research Institute of Online Public Opinion)」(ネット世論研究所)」

 

 note.com

 

仕事部屋は、メディアコミュニケーション研究中心

RIOPOは、ネット世論、政治コミュニケーション研究中心

とし、それぞれ、マガジン機能を利用して、記事をまとめています。

このはてなブログは今後記事を更新せずにこのまま設置しておく予定です。

関心をもっていただいた皆さまには、上記リンクからアクセスをお願いいたします。

 

拙著『スマホは心を操る』出版記念講座のお知らせ

拙著『スマホは心を操る』ですが、幸いなことに、多くの方にご関心を持っていただき、朝日カルチャーセンター新宿教室で出版記念講座を開くことになりました。

「スマホとネット世論のリテラシー入門」

9月19日(土)午後、90分X2部で開催します。

第1部では、数千万件規模のスマホ利用ログから見えてきた「スマホ漬け社会」の実像と、アプリが私たちの心の癖を捉え、習慣をつくり出す仕組みをお話します。

第2部では、道徳心理やSNSのアルゴリズムに注目し、なぜネット世論が実態以上に分断・極化して見えるのかを考えます。

スマホやSNSに振り回されるのではなく、それらと少し距離をとり、よりよく付き合うための視点を、できるだけ分かりやすくお話し、参加者の皆さまと一緒に考える予定です。

新宿教室での受講のほか、オンライン受講、見逃し配信もあります。ご関心のある方にご参加いただけましたら幸いです。

講座の詳細・お申し込みはこちらです。よろしくお願いいたします。

『ネット世論の構造』『スマホは心を操る』から


拙著『ネット世論の構造』の議論から、読者の皆さんに伝えたいメッセージ、コンセプトを5つ選択し、それぞれブログ記事にしました。以下の5つの記事です。

  1. 「道徳心理」とは何か―なぜ人は、見ず知らずの誰かを助けたくなるのか

  2. ネット世論の「二重バイアス構造」

  3. 「管中窺天」というリスクーフィルターバブル・エコーチェンバーとどう違う?

  4. 「メガ」か「ナノ」か――ネット世論の規模感を測り直す

  5. シャドーワークをデジタル通貨にー ハイプ・マシンが奪う時間、社会が見過ごす時間

この順番に読んでいただけるとありがたいです。拙著は10年来の試行錯誤をまとめたもので、論点はかなり多岐にわたります。とくに、Twitter(現X)、2ちゃん(5ちゃん)、ヤフコメ、11ブログという異なるプラットフォームでの1000万以上の投稿にどのような語彙がいかなる文脈で現れるかを、道徳心理の観点から分析しており、ネット世論に関心のある方には、史料的にも興味をもっていただけると考えております。

また、NotebookLMを用いて、上記記事それぞれの動画解説を作成しました。Youtube「メディア・コミュニケーション論への招待」チャンネルで公開しております。こちらも、よろしければアクセスください。

上記記事・解説動画から関心を持ち、拙著を図書館等で手に取っていただけると嬉しいです。また、最後を除いては、『スマホは心を操る』で簡易ではありますが、平易に伝わりやすいよう工夫して説明している部分があります。合わせてご高覧願えれば幸いです。

「生活者」「中道」=高度成長期語彙の限界―2026年総選挙「中道惨敗」が告げるもの

「福祉資本主義」の終焉——「生活者ファースト」というスローガンはなぜ響かなかったのか

本記事は、別記事「2026年総選挙「中道」の惨敗が告げるもの―「福祉資本主義」という“奇跡”が墓標となった日」を踏まえ、さらに「生活者」概念および「中道」概念の戦後史的変遷という視点を加えて大幅に改稿したものです。

 

「中道改革連合」の敗因


2026年2月の衆議院議員総選挙において、立憲民主党と公明党が合流して立ち上げた「中道改革連合」は、「生活者ファースト」をスローガンに掲げ、政権交代の受け皿を標榜しました。しかし、ご承知のように、結果は壊滅的でした。
この敗北の意味を本稿では考えたいと思います。その結論は、

「中道改革連合」の敗北は、特定の政党の失敗ではなく、戦後日本が構築した「福祉資本主義」という体制の、政治言語としての正式な終焉を意味している。

というものです。本稿はこの視点から、「中道」と「生活者」という二つの概念の歴史的変遷を辿り、2026年の選挙結果が何を意味するのかを、読者と一緒に考えていきます。

 

「生活者ファースト」——どこから来た言葉か

「生活者」という語の誕生

「生活者」という語は、戦後日本において独特の政治的・社会的役割を担ってきた概念です。それは単なる「消費者」でも「市民」でもない、日常生活を営む主体の全体性を指す語として育まれました。

この語の政治的覚醒は1960〜70年代に起きたといえます。生活クラブ生協(生活協同組合)(1965年〜)が「消費者を超えた生の主体」としての自己像を打ち出し、革新自治体ブームが「生活者の論理」を開発優先の「経済人」論理への対抗軸として掲げました。石牟礼道子の『苦海浄土―わが水俣病』(1969年)は、水俣病被害に苦しむ人々を「生活の場に根ざした人々の声」として描き、社会的に大きな反響を呼びます。

1970年代の革新自治体は、「生活者」概念に政治的正統性を与えた最初の場と捉えることができます。美濃部亮吉東京都知事(1967〜79年)らは、福祉・環境・教育を政治の中心に据え、大資本・中央集権国家に対抗する地域の自立した主体として「生活者」を位置付けたと言えるでしょう。


全盛期——マーケティング、行政、社会運動の三重奏

1980〜90年代、「生活者」概念は全盛を迎えました。博報堂は1981年に「生活総合研究所」を設立し、「生活者発想」を企業の中核概念として制度化することとなります。宮沢喜一内閣(1991〜93年)は、その所信表明で「生産・輸出優先」から「生活者・消費者重視」「生活・内需優先」への転換を掲げ、「生活大国」の実現を目指すとしました。宮沢政権は1992年に「生活大国5か年計画」を策定し、「GDPの大きさより生活の質」という転換を掲げたのです。

これが「中道改革連合」の「生活者ファースト」の直系の先祖といってよいでしょう。2026年の中道は、この全盛期の語彙をそのまま受け継いでいたのです。
しかし、この語が全盛であった時代には、それを支える社会的基盤がありました。分厚い中間層、終身雇用、右肩上がりの経済成長——「生活者」という語は、その恩恵の上に成立していたのです。

 

「中道」もまた同じ時代の産物

中道政治の黄金期

「中道」という政治的立場もまた、特定の時代的条件の産物です。1970年代、公明党・民社(民主社会)党を中心に構想された「中道連合」路線は、保守(自民党)でも急進左翼(社会党・共産党)でもない第三の政治勢力として積極的に機能しました。
この時期が「中道」の最も活性化した時代です。都市型中間層の急速な拡大が、イデオロギー的二極化よりも「現実的改革」「生活向上」を優先する有権者層を生み出しており、中道政党の社会的基盤となっていたのです。1976年衆院選で公明・民社が合計84議席獲得したのも、この中間層の厚みが支えていたと解釈できるでしょう。

「中道」概念の多義性と内的矛盾

しかし「中道」は常に多義的な概念でした。社会民主主義的中道(片山哲、民社党)、宗教的・倫理的中道(公明党)、反共自由主義的中道、改革主義的中道(細川新党・民主党)——その内実は政治的主体によって大きく異なり、「保守でも革新でもない」という差異的・関係的定義が最大公約数といってよいものでした。
この多義性は、「中道」が特定の政策内容によってではなく、主として他の立場との「差異化」によって定義されてきたことを示しています。「穏健」「現実的」「バランスがとれている」という正のイメージを纏わせる修辞的資源——これが「中道」の強みであり、同時に脆弱性の源でもありました。
1999年の自公連立以降、公明党の「中道」的アイデンティティは「自民党政権内の穏健な補完勢力」という性格に変質します。2026年の「中道改革連合」は、この流れへの反転を図ったわけですが、それ自体が時代への抵抗の試みであったといってよいでしょう。

 

「黄金の例外期」——中道と生活者を支えた歴史的奇跡

「生活者ファースト」も「中道の政治」も、特定の歴史的条件の上に成立した概念であることを理解するためには、経済学者トマ・ピケティらの研究に示唆される「黄金の例外期」(1950年代〜70年代)という視点が不可欠です。

資本主義社会(そして、おそらくは階層化された人類社会全般)において、富の集中は「定常状態」でした。上位1割が半分程度の富を得る一方、中位4割が4割前後、下位5割が数%に過ぎません。

しかし第二次大戦による富のリセットと、その後の「製造業の黄金期」において、奇跡的に分厚い中間層が形成されたのです。フォーディズム的な大量生産・大量消費のサイクルが回り、働けば給料が上がり、消費財を買い、生活が豊かになる。中等・高等教育の拡大で、労働者の質が上がり、生産工程の改善・商品開発力の向上が進展し、多種多様な商品・サービスが市場に投入される——この「歴史的な奇跡」「例外的な均衡」の上で、中間層の成長と福祉資本主義の発展という稀有な現象が起きました。日本社会は、「一億総中流社会」と形容されるほど、分厚い中間層が形成され、国民皆保険制度といった形で社会保障制度も充実したのです。

つまり、「生活者」「中道」概念は、

  • 高い経済成長率(分配の原資)
  • 製造業中心の産業構造(フォーディズム的大量生産・大量消費、消費財の多様化と高機能・高品質化の累進、正確さ・几帳面さ・均質さの重視)
  • 正社員・終身雇用・年功序列(中間層の再生産、雇用の安定)
  • 中等・高等教育の拡大(労働者の質向上寄与と産業セクターとしての拡大)
  • 国民国家単位での比較的閉じた経済圏
  • 人口ボーナス(生産年齢人口の増大)

といった条件を歴史的前提としていました。この条件が整っていたからこそ、「生活者」は豊かな生活を営む主体として想定でき、「中道」は分配と成長を両立させる現実的な路線として機能できた。換言すれば、「生活者」概念の暗黙の前提には、「一億総中流」、「中産階級的な安定した生活」があり、「中道」の政治的基盤には「分厚い中間層の票」があったのです。

 

「例外期」の終焉——溶解した概念の地盤

バブル崩壊と語の空洞化

1990年代後半のバブル崩壊と長期不況は、「生活者」概念の意味的地盤を掘り崩しました。「生活大国」構想は空語と化し、「生活者重視」を掲げた政策は実現されないまま政権が交代します。

この文脈で注目すべきは、「生活者」という語が後退し、代わって「格差社会」「ワーキングプア」「貧困層」「プレカリアート(新自由主義の中、生活も職も心も不安定さに晒される人々)」といった語が台頭したことです。橘木俊詔「日本の経済格差」(1998年)、佐藤俊樹「不平等社会日本」(2000年)がベストセラーとなります。「生活者」は中産階級的な安定した生活を前提とした概念であり、生存の危機に瀕した人々を記述する語としては機能しません。

50代以下がなぜ「中道」に冷淡だったか

出口調査のデータは、「中道改革連合」が60代以上では一定の支持を集めたのに対し、50代以下の現役世代からの支持は極めて薄かったことを示しています。この断絶は何を意味するのでしょうか。
60代以上の「中道」「生活者」支持者たちは、高度経済成長期・製造業中心の輸出立国モデル・正社員終身雇用・社会保障拡充期といったシステムが機能していた時代に成人し、その恩恵を肌感覚として知っている人々です。「分配と福祉」のストーリーは、かつて確かに存在した成功体験に基づいています。

しかし1990年代後半以降に成人した就職氷河期世代やデジタルネイティブ世代にとって、そのストーリーはもはや神話、映画の物語の世界です。

彼らが社会に出た時、日本は長期停滞・非正規雇用の拡大・グローバル競争の激化・財政制約の固定化という環境にありました。「生活者ファースト」というスローガンが想定する「守るべき生活」——安定した雇用、上昇する賃金、拡充する社会保障——は、彼らの生きた現実ではない。

彼らが生きてきたのは、「黄金の例外期」ではなく、グローバル化によって先進国中間層が「エレファントカーブ」の谷底を歩まざるをえなくなった時代です。1980年代以降、新興国の中間層とグローバルな超富裕層(トップ1%)が所得を伸ばす一方、先進国の中間層は、新自由主義、自己責任論を甘受するとともに、置き去りにされてきました。

(この論点については、拙稿「格差とメディアの交差点:「黄金の例外期」の終焉とテクノ家産制の到来」をご参照ください。)

 

「生活者」概念が不可視化していたもの

「生活者ファースト」が共鳴を失ったもう一つの理由は、この概念が構造的に「見えにくくしてきたもの」にあります。
「生活者」という語は、日常の具体的な営み、地域社会・コミュニティ、「普通の人々」という想定を前景化します。しかしその反面、階級・ジェンダー・エスニシティによる生活条件の差異、生産・労働関係の矛盾、生活困窮・貧困の実態、移民・外国人など、日本的「生活」、「中間層たる生活者」の外部にある人々を不可視化にします。

高度化、多様化、細分化する消費を享受する中産階級的・均質的な「生活者」像は、格差が固定化した社会では、かえって現実から遊離した概念として機能するのではないでしょうか? 「生活者ファースト」は、「生活者」とは誰なのかが問われないまま、言葉だけが独り歩きしたのです。

 

「市民」「消費者」「ユーザー」——語彙の競合と「生活者」の後退

2000年代以降のインターネット普及・SNS社会の到来は、社会的主体を記述する語彙を大きく変えてきました。「ユーザー」「プレーヤー」「クリエイター」「インフルエンサー」といった語が台頭し、「生活者」の占めていた意味空間を分割していきます。
マーケティング領域では、「生活者」は「ユーザー」「顧客(カスタマー)」「ファン」などに部分的に置き換えられました。デジタル・マーケティングの文脈では、行動ログ・購買履歴で定義される「ユーザー」の方が操作的に便利であり、「生活者」という語の持つ人文学的な厚みは分析の障害ですらあるでしょう。

社会の流れを察知する能力に長けた現都知事は、「都民ファーストの会」設立時から、「都民ファースト」「都民利益優先」「東京大改革」を強調しても、「生活者ファースト」とは明示的には用いていませんでした。

また政治領域でも、「中道」という語はメディア言説で使われる頻度が低下し、「リベラル」「穏健保守」「改革派」といった語が部分的に代替機能を果たすようになりました。「中道改革連合」の命名自体が、こうした語彙的衰退に抗う試みでしたが、時代の流れに逆らうことは叶いませんでした。

 

テクノ封建制・テック家産制の時代に「生活者」を語ることの意味

では、「中道」も「生活者」も、もはや無効な概念なのでしょうか。そう断言するのは早計です。むしろ、その語が失効した理由を正確に理解することが、次のステージへの思考の出発点となると考えます。
現代の「テクノ封建制」とでも呼ぶべき状況——プラットフォームという「私有地」で、注意(アテンション)や行動データを「地代」として差し出しながら生きる「デジタル小作人」としての現代人——、そして、AI・監視ツール・プロパガンダ技術を、権力者が自らの権能を拡大、誇示するために恣意的に行使し、国家、社会を自らの家産のように扱う「テック家産制」が顕在化している現状を記述するためには、「ユーザー」という機能的概念だけでは不十分でしょう。
オンラインとオフラインを横断する現代の生活実践を「生活者」の観点から分析する枠組みは、むしろ現代的意義を持ちえます。SNS・プラットフォームに媒介された生活を、「ユーザー」という機能的概念ではなく、「生活者」という全人的概念で捉え直すことには、批判的有効性が生まれる可能性があります。
アルゴリズムが怒りや分断を増幅させ、かつて民主主義の基盤であった情報空間が感情を収奪する装置へと変質している時代において、道徳感情の進化論的・文化的基盤を問い直すことは不可欠です。人間の道徳的行動の基盤には内集団への信頼と外集団への警戒という進化的メカニズムがあり、「生活者」という概念は、その適用範囲——誰を「われわれ生活者」として包摂し、誰を排除するか——においてこの問題と直結しているのです。

 

ノスタルジーを超えて——新しい「生活者」像と「中道」の条件

2026年の選挙結果は、私たちがもはや「昭和の夢(黄金の例外期)」には戻れないことを冷徹に示しました。福祉資本主義が成立した条件(戦争によるリセット、社会の教育水準向上、製造業中心の高度成長)は消え去り、「生活者ファースト」というスローガンはその墓碑銘となったのです。しかしこれは、「生活者」概念の完全な無効化ではなく、それは概念の批判的再定義を求めていると考えることもできます。

 

「生活者」概念の再定義に向けた四つの条件

1:中産階級的・均質的な「生活者」像の解体

戦後の福祉資本主義において前提とされてきた、安定した雇用と所得を基盤とする均質的な中間層としての「生活者」像は、もはや現実を捉えていません。今日の社会は、生活条件の多様性、不平等、そして交差性(intersectionality)によって構造化されています。外国人労働者、シングルマザー、障害者、高齢単身者といった社会的主体を、「例外」ではなく構成要素として内包する概念への再構成が求められているのではないでしょうか。

2:「多数派でありながら剥奪感を抱く主体」を包摂する視点

現代社会においては、統計的には多数派に属しながらも、自らを「恵まれていない」と感じる人々が広範に存在しています。安定した成長と分配が前提とされていた時代とは異なり、「相対的剥奪感」(頑張っているのに報われない感覚)は、必ずしも客観的な貧困や周縁性と一致しません。この層はしばしば、筆者がネット世論研究で明らかにしてきた「非少数派政治」に共鳴し、既存の再分配や包摂の言説から疎外されてきました。「生活者」という概念を再定義するのであれば、こうした主観的剥奪や承認の問題を正面から扱い、多数派内部の不満や不安をも包摂する必要があると考えます。

3:デジタル社会との接続

プラットフォームに媒介された現代の生活実践は、単なる消費や労働にとどまらず、注意・感情・関係性そのものを巻き込んでいます。これを「ユーザー」という機能的概念に還元するのではなく、「生活者」という全人的概念として捉え直すことで、いわゆるテクノ封建制、テック家産制の構造に自覚的になりつつ、デジタル資本主義下での主体のあり方を再構想することが求められていると考えます。

4:世代間で共有可能な新しい社会的ストーリーの構想

高度成長期の再来を前提とした物語は、もはや現実的ではありません。デジタル化とグローバル化の中で富が偏在する状況を前提に、いかにして適正な富の産出と分配を実現しうるのか、そしていかにして国民国家としての凝集力を維持しうるのかが問われています。「生活者」という概念は、そのような新しい社会契約を支える言語として再構成されるべきであり、その過程で、新たな言葉が模索される必要もあるでしょう。

 

問われるべきは、誰の「生活」を「ファースト」とするのかという、根本的な問い直しです。テクノ封建制、テック家産制を脱し、あるいは、ずらし、新しい共通の空間を再構築できる市民——その知性こそが、これからの政治に求められているのではないでしょうか? 「生活者」という語を、その言葉のまま、あるいは、その概念をアップデートした新たな言葉へと転生させ、再び生きた概念として取り戻すとすれば、それは高度成長期のノスタルジーとしてではなく、デジタル時代の創造的武器としてであることが必要不可欠だと考えます。

 

 

 

 

社会的情報(Social Information)とは何か―SNSに惹きつけられる動因

本記事は、「メディア・コミュニケーション論」に関心のある学生の皆さんを念頭おいたものです。また、NotebookLMを用いた説明動画をYoutube(「メディア・コミュニケーション論への招待」チャンネル)にもアップし、筆者が立教社会で担当している「メディア・コミュニケーション論」の補助教材も意図しています。

本記事に対応した説明動画は、SNSに惹きつけられる動因:社会的情報とは何かです。

この点を予めご承知おきください。

はじめに

LINEやX、Instagram、BeReal.など、私たちは日々さまざまなSNSに惹きつけられています。改めて、その動因を考えてみましょう。

あの通知音に思わず手が伸びるとき、私たちが本当に求めているのは何でしょうか。「面白いから」「暇つぶしになるから」と説明することは簡単です。しかし、それだけならニュースアプリや動画配信サービスでも十分なはずです。それでも私たちは、「人がいる空間」に戻ってしまう。そこに何があるのでしょうか。実は私たちが求めているのは、出来事そのものの情報―‐新着ニュースや天気予報―ではなく、誰かが何かをした、誰かが何かを感じた、という情報ではないでしょうか。

  • どの投稿がバズったか、
  • 友人が昨夜どこで食事をしたか、
  • 同僚が職場でどんな評価を受けているか、
  • 自分は取り残されていないか、
  • 見知らぬ誰かが今この瞬間に何を考えているか。

私たちがスマホ、SNSに強く惹きつけられるのは、こうした「他者に関する情報」「他の人がどう見ているかという情報」への飽くなき渇望が私たちのココロの底で強力に脈打っているからではないでしょうか。

研究者たちはこうした情報を「社会的情報(social information」と呼びます。本稿では、この概念の学術的な源流をたどりながら、社会心理学における重要な理論展開を紹介し、最後に筆者の専門である文化進化論的な視点からその意味を考えてみたいと思います。

 

社会的情報とは何か

「社会的情報」とは、ひとことで言えば、「他者の行動・感情・意見・関係性に関する情報」のことです。しかしこの概念のより重要な含意は、単に「他者についての情報」という定義にとどまりません。

社会的情報をめぐる議論の核心にあるのは、次の洞察です。

人は、他者から得られる情報(社会的情報)を通じて、自己の状況、能力、行動などに対する認識や態度を形成する。

つまり、私たちは他者に関する情報を受動的に受け取るだけでなく、それを鏡として自己を理解し、自らの態度や行動を方向づけているのです。この観点は、現代のSNS研究から組織論、文化進化論にいたるまで、広範な分野で重要な位置を占めています。では、この洞察の学術的な源流はどこにあるのでしょうか。

 

源流としてのフェスティンガー――社会的比較理論

私たちが社会的情報を強く求める理由のひとつは、自分自身を評価したいという根源的な欲求にあります。「自分は仕事ができるのか」「自分の意見は正しいのか」「自分は料理が上手いのか」――こうした自己評価の問いに対して、明確な客観的基準が存在するケースはそれほど多くありません。体重は体重計で測れますが、「自分はセンスが良いか」「自分の政治的意見は妥当か」は、どうやって確かめればよいのでしょうか。

この問いに先駆的な答えを与えたのが、「認知的不協和理論」でも知られる社会心理学者、レオン・フェスティンガー(Leon Festinger)です。1954年の論文において、フェスティンガーは社会的比較理論(Social Comparison Theory)を提唱しました(Festinger, 1954)。

この論文が契機となり、多様な調査研究が「社会的比較理論」として展開することとなります。その洞察の核心は、人は自身の能力や意見を評価しようとする欲求を持っており、客観的な基準が利用できない場合には、他者との比較を通じて自己評価を行う。私たちは他者を「社会的な物差し」として用いることで、自分自身の位置や価値を測っているということです。

つまり、社会的比較理論は、他者と比較(他者を参照)することが、私たちヒトにとって、自分自身を理解し、行動の指針を得るためにいかに重要で、本質的かを示しています。フェスティンガーは「客観的基準がない場合に」と留保を入れましたが、その後の研究では、客観的基準があっても、他者比較・他者参照が、自己評価に重要な役割を果たすことが明らかとなっています。

では、人はなぜ他者と比較するのでしょう? 社会心理学的観点からは、自分の能力や成果を評価するため(自己評価)、より優れた他者を参考にして成長を目指すため(自己改善)、自尊心を高めるため(自己高揚)、行動の指針を得るため(行動指針)、そして他者とのつながりを求めるため(所属欲求)など、多岐にわたります。

比較の対象は、「類似性」が高いほど選ばれやすいですが、特定の個人であることもあれば、集団平均や想像上の人物であることもあります。また「比較の方向性」、つまり、「上方比較」「下方比較」が重要な役割を果たします。自分より優れている人を対象にする上方比較では、向上心やモチベーションを刺激する一方、劣等感や嫉妬につながりうる。自分より劣位と思われる人と対象とする下方比較では、安心感や優越感を得る効用があり、特にストレスや不安を感じ、自尊心を守ろうとする動機が働きます。そして、人は比較対象、比較の着眼点や比較の仕方を戦略的に選び、情報を取捨選択して、時には、自分にとって都合の良い解釈を行う傾向もみられるのです。

SNSのタイムラインを眺めるとき、私たちは無意識のうちにこの比較を行っているのではないでしょうか。友人の旅行写真、同期の昇進報告、見知らぬ誰かの洗練されたライフスタイル――これらはすべて、自己評価のための「社会的な物差し」として機能しうるのです。フェスティンガーの理論は、SNSが生まれる半世紀以上前に書かれたものでありながら、現代のデジタル環境を鮮やかに照らし出しています。

 

社会的情報処理(Social Information Processing――サランシックらの貢献

フェスティンガーが切り開いた「他者の情報をもとに自己を形成する」という洞察は、後の研究者たちによってさらに発展させられます。

その重要な一歩が、サランシック(Salancik)とフェッファー(Pfeffer)による「社会的情報処理モデル(Social Information Processing Model)」です(Salancik & Pfeffer, 1978)。彼らが焦点を当てたのは、職場・組織という文脈における態度形成です。

従来の職務満足研究では、仕事そのものの客観的な特性(給与水準、業務の複雑さなど)が、従業員の態度を決定すると考えられてきました。しかしサランシックらはこれに異議を唱えます。人は職務の客観的特性そのものよりも、周囲の人々(同僚や上司)がその仕事についてどのような情報を提供し、どのような態度を示しているか――すなわち社会的情報――に強く影響を受けながら、自らの仕事に対する態度を形成するというのです。

「この仕事はやりがいがある」「この職場の雰囲気はよい」といった判断は、仕事の実態そのものだけでなく、周囲からの社会的情報によって大きく左右される。この視点は、組織行動論や経営学に多大な影響を与えました。

 

ウォルサーのSIP理論――デジタル環境における社会的情報処理

このように、他者から得られる情報は、私たちの意思決定、判断にとってきわめて大きな役割を果たしていますが、オンラインを介する他者とのコミュニケーションが、対人関係形成に対して及ぼす影響にも、きわめて興味深い特性を見ることができます。1980年代から90年代、コンピュータやパソコン通信、遠隔会議システムなど情報通信技術(ICT)の発展を受けて、「コンピュータ媒介コミュニケーション(CMC: Computer mediated communication)」という研究領域が形成されました。初期のCMC研究では、CMCは対面コミュニケーションに比べて「貧しい」メディアとみなされていました。表情や声のトーン、身振りといった非言語的な手がかりが失われるため、社会的・感情的な情報の伝達が困難であり、人間関係の形成には不向きだという考え方です(例えば、Kiesler et al. 1984)。こうした議論は、「手掛かり濾過(cues-filtered-out)」論とも呼ばれます。

それに対して、ウォルサー(Walther)は、「社会的情報処理理論」(Social Information Processing Theory、SIPT)という興味深い理論を提起しました(Walther, 1992)。人はたとえ非言語情報が制限された環境であっても、利用可能な手がかり――文字の選び方、絵文字、返信のタイミング、メッセージの長さ――を駆使して社会的情報を伝達・解読し、やがて対面と同等の豊かな対人関係を築くことができると主張したのです。重要なのは「時間」の要素です。ウォルサーによれば、CMCにおける関係形成は対面より時間がかかるものの、時間をかければ十分に深い関係が構築できます。SNS上で見知らぬ人と交流し、深い友情や信頼が生まれることがあるのは、SIP理論が予測する現象そのものと言えるでしょう。

 

チャルディーニのソーシャルプルーフ(社会的証明)――「みんながやっている」という力

ここまでの議論は、主に「自己評価」や「態度形成」という観点から社会的情報の機能を見てきました。しかし社会的情報には、もうひとつ強力な働き方があります。それが、行動の選択に対する影響です。

社会心理学者チャルディーニ(Cialdini)は、その著書『影響力の武器(Influence: The Psychology of Persuasion)』(1984)において、人間の行動を動かす六つの原理のひとつとしてソーシャルプルーフ(social proof:社会的証明)を挙げています(Cialdini, 1984)。

ソーシャルプルーフとは、「多くの人がそうしているなら、それは正しい選択に違いない」という心理的傾向のことです。行動の正しさや適切さを判断するとき、私たちはしばしば自分の独立した判断ではなく、他者の行動という「社会的情報」を手がかりにします。

この現象は日常のいたるところに見られます。レストランの前に行列ができていると入ってみたくなる、レビューの多い商品を信頼してしまう、「98%のユーザーが満足」というコピーに惹かれる――これらはいずれもソーシャルプルーフが機能している瞬間です。SNSにおける「いいね!」数やリポスト数、フォロワー数は、まさに社会的情報を数値として可視化し、ソーシャルプルーフを意図的に誘発する設計だと言えます。

フェスティンガーが「自己評価のために他者と比べる」という動因を示したとすれば、チャルディーニは「行動の選択においても、人は他者の動向という社会的情報に強く引き寄せられる」ということを明晰に示したのです。両者はまさに、社会的情報が人間の認知と行動の双方に深く根ざしていることを、それぞれの角度から照らし出しています。

 

文化進化論と「誰から学ぶか」のバイアス

ここまでの議論を踏まえた上で、最後により根本的な問いを立ててみましょう。

そもそも人間は、なぜこれほどまでに社会的情報に敏感なのか。

近年の進化心理学や文化進化論の研究は、この問いに対して人類進化の文脈から示唆に富む観点を提供しています。本ブログの別記事(「セレブ(スター)」・「流行」の社会学)では、「流行」「セレブ」の議論として紹介しましたが、人類学者ジョセフ・ヘンリック(Joseph Henrich)らの議論は、この「社会的情報」が持つ私たちヒトへの強力な磁力を説明するものでもあります。

ヘンリックらによれば、ヒトがここまで種として繁栄したのは、「累積的文化学習(cumulative cultural learning)」により、他者の知識や技術を継承して、社会を発展させることができたがゆえです(Henrich, 2016)。私たちが現在享受している言語・道具・制度・技術のほとんどすべては、個人が一から発明したものではなく、他者から学び、世代を超えて蓄積されてきたものなのです。

つまり、私たちが生存のために学ぶ知識・スキルは、自分の経験、行動、思考のみで発見したり、身に着けたりすることができず、模範となる個体を見つけ出し、模倣することが重要となる特性を持ちます。そこで、「何を学ぶか」ではなく、「誰から学ぶか」という判断こそが、学習においてきわめて重要となります。人は無差別に他者を模倣するのではなく、いくつかの社会的学習バイアスを働かせながら「信頼できる学習対象」を選び取ります。ヘンリックらが提示する主要なバイアスは次のようなものです。

  • 自己類似バイアス:自分と似た人(年齢、性別、出身地、趣味、考え方など)を信頼し、模倣しやすい
  • スキル・バイアス:特定の技能において優れている人を優先的に模倣する
  • 成功バイアス:社会的に良い結果を出している人、豊かな生活を送っている人を模倣する
  • 威信バイアス:周囲から尊敬・注目を集めている人物を優先的に模倣する

そして、情報が不十分で、誰を信頼できるか分からない状況では、「多数派を模倣せよ」という同調バイアス(頻度依存バイアス)が働きます。ヒトは、集団内での意見や行動の分布に敏感であり、「何が多数派・主流か」を察知する能力を備えています。

これらのバイアスは、進化的な観点からはきわめて合理的な戦略でした。生存や繁殖に必要な知識を効率的に学ぶためには、誰を真似るかを見極めることが重要だからです。文化はこうした選択的学習を通じて、世代を超えて累積的に発展してきました。私たちが「社会的情報」に鋭敏なのは、「誰に学ぶ」かが生存上決定的に重要な意味を持つことが、その基底にあると考えることができます。

この観点から見ると、現代のセレブ文化やインフルエンサー現象は、まさにこうした社会的学習バイアスの現代的表現に他なりません。私たちが人気インフルエンサーの推薦する商品を購入したり、流行のファッションや言葉遣いを取り入れたりするのは、「成功者から学びたい」「威信ある存在に近づきたい」という進化的な欲求に突き動かされているからだとも言えるのです。

 

おわりに

社会的情報の系譜をたどると、フェスティンガーの社会的比較理論に始まり、サランシックらの社会的情報処理モデル、ウォルサーのSIP理論を経て、チャルディーニのソーシャルプルーフ、さらにヘンリックらによる文化進化論に至る一本の流れが見えてきます。いずれも「人間が他者の行動・評価・情報を判断の資源にする」という傾向を、それぞれの角度から理論化したものです。

SNSのタイムラインに流れる無数の投稿は、単なる情報の集積ではありません。それは、自己を評価し、他者と比較し、誰から学ぶかを判断しようとする、人間のきわめて根源的な欲求が生み出した「社会的情報の海」です。

この仕組みを理解することは、単に「スマホは依存的だ」と批判するだけにとどまりません。なぜ私たちがそこに引き込まれるのか、その背後にある人間心理と文化進化のメカニズムを理解する手がかりとなるのです。その通知音に手が伸びるとき、そこには数百万年の進化と、幾千年にわたる文化の蓄積が宿っているのかもしれません。

 

参考文献

Cialdini, R. B. (1984). Influence: The Psychology of Persuasion. Harper Business. (チャルディーニ、R. B. (2023) 『影響力の武器[新版]』(社会行動研究会訳)、誠信書房)

Festinger, L. (1954). A theory of social comparison processes. Human Relations, 7(2), 117–140.

Henrich, J. (2016). The Secret of Our Success: How Culture Is Driving Human Evolution, Domesticating Our Species, and Making Us Smarter. Princeton University Press. (ヘンリック、J. (2019) 『文化がヒトを進化させた』(今西康子訳)、白揚社)

Kiesler, S., Siegel, J., & McGuire, T. W. (1984). Social psychological aspects of computer-mediated communication. American psychologist, 39(10), 1123-1134.

Salancik, G. R., & Pfeffer, J. (1978). A social information processing approach to job attitudes and task design. Administrative Science Quarterly, 23(2), 224–253.

Walther, J. B. (1992). Interpersonal effects in computer-mediated interaction: A relational perspective. Communication Research, 19(1), 52–90.

 

プロパガンダ10の法則・7つの技法

本記事は、本ブログの別記事「プロパガンダ研究:第一次大戦と戦争プロパガンダ」から、「戦争プロパガンダ10の法則」「IPAプロパガンダ7つの技法」の部分を取り出して、補足したものです。この2つは、時代を問わず、プロパガンダを分析するツールキットとして重要であり、社会知として共有されることが望ましいと考え、本記事にしました。

また、NotebookLMを用いた説明動画をYoutube(「メディア・コミュニケーション論への招待」チャンネル)にもアップし、筆者が立教社会で担当している「メディア・コミュニケーション論」の補助教材も意図しています。
本稿に対応した説明動画は、以下の2つです。よろしければご高覧ください。

なお、アマゾンでのモレリ『戦争プロパガンダ10の法則』ページもあります。

以上、予めご承知おきください。

戦争プロパガンダ「10の法則」:繰り返される情報操作のチェックリスト

第一次世界大戦期の経験をもとに、英政治家アーサー・ポンソンビー(Arthur Ponsonby)は戦時に流布される「嘘」の典型を整理しました (Ponsonby 1928)。これをベルギーの歴史家アン・モレリ (Anne Morelli) は後に、「戦争・紛争時に反復されやすい情報操作の原則」として10項目にまとめました (モレリ 2015『戦争プロパガンダ10の法則』(原著Morelli 2001))。これは、戦時言説を批判的に読み解くための分析フレームとして現在でも有用です。

  1. 我々は戦争をしたくない
  2. 敵側が一方的に戦争を望んだ
  3. 敵の指導者は悪魔のような人間だ
  4. 我々は偉大な使命(正義)のために戦う
  5. 我々の犠牲は過失だが、敵はわざと残虐行為をしている
  6. 敵は卑劣な戦略や兵器を用いている
  7. 我々の受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大
  8. 芸術家や知識人もこの戦いを支持している
  9. 我々の大義は神聖なものである
  10. この戦いに疑問を投げかける者は裏切り者である

これらの中で、とりわけ「敵指導者の悪魔化」や「戦況の歪曲」は、大衆の判断に強い影響を及ぼしやすいとされています。相手を非人間的な存在として描くことで、倫理的なためらいが弱まり、複雑な状況を単純な善悪二元論として受け止めやすくなるからです。また、最後の「疑問を持つ者は裏切り者だ」は、人々の内集団への忠誠心と裏切り者への制裁感情に訴えかけ、人々の間に、相互監視を生み出します。もちろん、こうした効果は常に一様ではなく、社会状況や情報環境によって増幅されたり抑制されたりします。

ここで一つ、歴史の皮肉と感じられることがあります。モレリの原著は、2001年7月に出版されており、次のような一節をモレリは書いています。

本書でとりあげたプロパガンダの法則は、たしかにこれまで実践されてきたものの、現代にはもう通用しない、今後はもう繰り返されることはないだろう、と思う読者もいるだろう。・・・(中略)・・・。だが、たとえありえないことに思えても、今後も必ず「敵への攻撃」はおこなわれるし、「善と悪の戦い」も「敵の指導者の醜悪化」も繰り返されることだろう。学者たちは、流血沙汰を支援して筆をふるうことだろう。(モレリ 2015: 164)

この引用をみて、読者の中には奇異に感じる人もいるかもしれません。2020年代、戦争プロパガンダは、「もう通用しない」「今後はもう繰り返されることはないだろう」と思う読者がいるとは考えづらいからです。

ただ、振り返ってみると、1990年代、冷戦終結から同書が出版される2001年までは、「パクス・アメリカーナ」(アメリカによる平和)とも呼ばれ、アメリカが世界で唯一の超大国として国際秩序を主導していました。同時期は、軍拡競争の終焉、国際協調の進展で軍事費を削減し、その「平和の配当」を教育、医療、インフラなどに充てることができるといった楽観的時代でもあったのです。

引用はそうした楽観的態度を戒めるものだったのですが、皮肉にもその出版(7月)から2か月後、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件はまさにその楽観を打ち砕くものでした。そして、2020年代、私たちはまさにMorelliが懸念した事態に直面しているのです。この皮肉を私たちは忘れず、「戦争プロパガンダ10の法則」は、受け継がれていくべき分析フレームと考えます。

Institute for Propaganda Analysis (IPA) 「プロパガンダ7つの技法」

もう一つ、プロパガンダを分析するための道具箱(ツールキット)として有用な、IPA(プロパガンダ分析研究所)という組織が提示した「プロパガンダ7つの技法」を紹介します (Sproule 2001)。

IPAは、1937年、アメリカの教育者や社会学者が中心となって、ニューヨークで設立されました。当時はナチス・ドイツの台頭や、第一次世界大戦時のプロパガンダへの反省から、「大衆がいかにして情報に操作されるか」を科学的に分析し、市民の「クリティカル・シンキング(批判的思考)」を養うことが急務と認識されていたのです。

IPAは、プロパガンダを「意図的な手段を用いて、あらかじめ決定された結論に向かって他者の意見や行動を操作しようとする試み」と定義します。そして、プロパガンダを「魔術」ではなく、客観的な「技術」として、その特徴を明らかし、批判的思考を促すことを目的に、啓蒙活動を展開しました。具体的には、月刊ニュースレター”Propaganda Analysis”を通じてその知見を一般市民に公開し、学校教育の現場でも広く活用されたのです。

そして、財政難から1942年に活動を終えましたが、1937年にニュースレターで提示された「プロパガンダ7つの技法(The Seven Common Propaganda Devices)」は、メディアリテラシー教育の原点とされ、現在に至るまで影響を与え、活用されています。

 

技法

内容

ネーム・コーリング (Name Calling)

相手に「共産主義者」「独裁者」といった否定的レッテルを貼り、中身の吟味の前に拒絶反応、内容の是非ではなく感情的な反発を誘う。

華麗な一般論 (Glittering Generalities)

「自由」「民主主義」「正義」といった、誰もが反対しにくい抽象的でポジティブな言葉(美辞麗句)を用いて、具体的な議論を回避する手法。

転移 (Transfer)

教会や国旗、科学の権威など、人々が信頼しているものの威光、威信を、自分の主張と結びつけて信頼を勝ち取る手法。

証言 (Testimonial)

有名人や専門家、あるいは「信頼できる第三者」に、特定のアイデアや商品を支持(または批判)させる手法。(現在のタレント広告やインフルエンサーマーケティングに近い。)

庶民派アピール (Plain Folks)

「私はあなたたちと同じ普通の人間だ」と演出、強調することで親近感を抱かせ、信頼を得る。

カード積み上げ (Card Stacking)

自分に有利な証拠だけを提示し、不都合な事実は隠すことで、議論・結論を一方的に操作する手法。

バンドワゴン (Bandwagon)

「みんながやっている」「乗り遅れるな」と強調し、集団心理・同調圧力を利用して味方に引き入れる手法。

現代のSNSやフェイクニュース環境においても、この7つの古典的な技法は形を変えて生き続けていることに気づくでしょう。

とくに、「華麗な一般論」は2020年代アメリカ大統領をはじめとして、自らの政策を美辞麗句で飾り立て、言葉で認識を強制的に形作る傾向が露骨に現れています。2026年2月の衆院選総選挙の際にも、「責任ある積極財政」「消費税廃止」「社会保険料削減」といいながら、財源、社会保障制度をどうするかは分からないままです。すでに「神」や「神話(レジェンド)」も、八百万(やおよろず)では足りないほど、世間には満ち溢れており、耳障りのいい言葉のインフレがこれからも加速することは間違いありません。

 

情報過多の時代を生き抜くための「メディア・リテラシー」

第1次世界大戦で確立された手法は、決して過去の遺物ではありません。メディアがラジオ、映画、テレビ、SNS、生成AIへと進化しても、人間の心の隙を突く技術は不変です。情報を無批判に受け入れることは、自らの思考を他者に委ねることを意味します。

現代を生き抜くために、情報の波に直面した際は以下の3点を自問してください。

  1. 情報の「送り手」は誰か?(情報源の意図と背景の確認)
  2. この情報は、私の「感情」にどう訴えかけ、どのような「行動」を促そうとしているのか?(心理的誘導の察知)
  3. あえて隠されている「反対側の視点」や「語られない事実」はないか?(多角的な分析)

第1次世界大戦の歴史が教える最大の教訓は、「情報を鵜呑みにせず、常に送り手の意図を想像し、自らの頭で考える『批判的思考(クリティカル・シンキング)』こそが、情報の武器化に対する重要の防護策である」ということではないでしょうか。

2026年総選挙「中道」の惨敗が告げるもの―「福祉資本主義」という“奇跡”が墓標となった日

この記事は、本ブログ記事「格差とメディアの交差点:「黄金の例外期」の終焉とテクノ家産制の到来を踏まえたものです。ご関心を持たれた方は、上記記事もご一読ください。

(2026年3月18日追記:この記事は、議論の背景が分かりづらかったため、「生活者」「中道」という語彙の由来とその限界の議論を補った記事もアップしました。「「生活者」「中道」=高度成長期語彙の限界―2026年総選挙「中道惨敗」が告げるもの」です。よろしければ、合わせてご高覧ください。)

 

はじめに

2026年2月に行われた衆議院議員総選挙において、立憲民主党と公明党が合流して生まれた「中道」勢力が壊滅的な敗北を喫しました。 多くの政治評論家が戦術ミスやリーダーシップの欠如を敗因に挙げる中、筆者は、この結果をより大きな歴史的文脈――すなわち、第二次世界大戦後に成立した「福祉資本主義」の正式な終焉として捉えるべきだと考えています。

なぜなら、今回の選挙で見えた世代間の断絶は、私たちが生きた経済史の断層そのものだからです。

 

「黄金の例外期」の夢を見た世代

出口調査のデータは残酷な事実を突きつけました。「中道」は60代以上で一定の支持を集めましたが、50代以下の現役世代からの支持は極めて稀薄でした。この60代以上という世代は、一体何を共有しているのか。それは、経済学者トマ・ピケティらが指摘する、資本主義の歴史における「黄金の例外期」(1950年代〜70年代)の記憶です。

人類の長い歴史において、富の集中は「定常状態」でした。しかし、第二次世界大戦による富のリセットと、その後の「製造業の黄金期」においてのみ、奇跡的に分厚い中間層が形成されました。フォーディズム的な大量生産・大量消費のサイクルが回り、働けば給料が上がり、消費財を買い、生活が豊かになる。この「歴史的な奇跡」の上で、中間層の成長と福祉資本主義の発展という稀有な現象が起きました。つまり、60代以上の「中道」支持者たちは、

  • 高度経済成長期
  • 製造業中心の輸出立国モデル
  • 正社員・終身雇用・年功序列
  • 中等・高等教育の拡大
  • 社会保障拡充期

といったシステムが機能していた時代に成人し、その恩恵を肌感覚として知っている人々です。「生活者ファースト」の「生活者」とはまさしくこの肌感覚に根差しています。この時代、日本は「福祉国家」と「成長資本主義」を両立させるモデルを実現できました。経済成長が分配の原資となり、国民国家は比較的高い凝集力を維持できたのです。彼らが掲げる「分配と福祉」のストーリーは、かつて確かに存在した成功体験に基づいています。

 

エレファントカーブを生きるデジタルネイティブ

しかし、1990年代後半以降に成人した就職氷河期世代やデジタルネイティブ世代にとって、そのストーリーはもはや神話です。

彼らが社会に出た時、日本は

  • 長期停滞
  • 非正規雇用の拡大
  • グローバル競争の激化
  • 財政制約の固定化

という環境にありました。

つまり、彼らが生きてきたのは、「黄金の例外期」ではなく、「エレファントカーブ」の谷底を先進国中間層が歩まざるをえない時期だったのです。

1980年代以降、グローバル化とデジタル化が進展する中で、世界は再び戦前の富の分配格差へと戻り始めました。新興国の中間層と、グローバルな超富裕層(トップ1%)が所得を伸ばす一方で、先進国の中間層は置き去りにされました。 実際、過去40年間で最上位1%の富裕層はグローバル経済成長の果実の4分の1近くを享受しています。2025年時点の推計では、世界のビリオネア(超富裕層)上位12名の資産合計が、人類の下位50%(40億人)の資産合計を上回るという、極端な不均衡が生じています。

戦後福祉資本主義が成立した条件を整理すると、少なくとも以下が挙げられるでしょう。

  • 高い経済成長率
  • 国民国家単位での比較的閉じた経済圏
  • 製造業中心の産業構造
  • 労働組合と企業の協調
  • 人口ボーナス

ですが、失われた30年+はどうでしょうか?

  • 低成長
  • デジタル資本主義の進展
  • グローバル資本移動
  • 少子高齢化
  • プラットフォーム経済

これらは、福祉資本主義の制度的前提を根底から変えたわけです。

したがって、50代以下の有権者が「中道」に冷淡だったのは、彼らが冷徹だからでも、倫理観が変わったからでもありません。彼らは、かつての福祉資本主義を支えた「製造業の黄金期」という前提条件が消滅した世界を生きているからであり、「生活者」を肌感覚では理解できない世代だからです。

 

テクノ封建制と新たな権威主義の影

では、「中道」の敗北した社会で何が起きているのでしょうか。 私たちは今、ピケティが警告した「r > g」(資本収益率が経済成長率を上回る)の世界に戻りつつあるだけでなく、巨大テック企業とその力を私物化する権力者が領主のように振る舞う「テクノ封建制」あるいは「テック家産制」とも呼ぶべき新たな支配構造に直面しています。

私たちはプラットフォームという「私有地」で、注意(アテンション)や行動データを「地代」として差し出しながら生きる「デジタル小作人」になりつつあります。そこでは、アルゴリズムが怒りや分断を増幅させ、かつて民主主義の基盤であった情報空間は、感情を収奪する装置へと変質しています。

こうした環境下では、新自由主義と新たな権威主義の結合が、静かに進展しているのかもしれません。市場の論理で効率を追求しつつ、政治的には強い統合と統制を求める。一見矛盾するように思われるこの組み合わせは、決して矛盾しません。むしろ、不安定な社会では、「市場で競争せよ、しかし権威には従え」というメッセージは一定の説得力を持ち始めているようです。

リベラルな民主主義的プロセスよりも、強いリーダーシップや権威主義的な解決を求める声が高まりやすくなります。少数の富裕層が政治やメディアを通じてルールを支配する「オリガルヒ化」も懸念されています。

 

ノスタルジーを超えて

2026年の選挙結果は、私たちがもはや「昭和の夢(黄金の例外期)」には戻れないことを残酷なまでに示しました。福祉資本主義が成立した条件(戦争によるリセットと製造業中心の高度成長)は、完全に消え去ったのです。

「中道」の敗北は、過去のシステムへの郷愁が終わったこと、20世紀中葉の福祉資本主義は正式に埋葬され、墓標が建てられたことを意味します。しかし、それは私たちが無防備なまま「新しい中世」や「テクノ家産制」を受け入れるべきだという意味ではありません。

今、私たちに必要なのは、過去の再来を願うことではなく、このデジタル化され、富が偏在する過酷な現実を直視した上で、いかにして国民国家としての凝集力を保ち、適正な富の循環を生み出すかという、全く新しい「制度」と「ストーリー」の構想です。

重要なのは、

  • デジタル資本主義下での富の創出を促進するとともに、公正な社会的分配を制度化すること
  • 国民国家の凝集力を保つ価値観
  • 世代間で共有可能な新しい社会的ストーリー

を構想できるかどうかでしょう。

情報の背後にある権力構造を見抜き、新しい共通の空間を再構築できる市民であり続けられるか。その知性こそが、これからの政治に求められているのではないでしょうか?