木村忠正の仕事部屋(ブログ版)

ネットワーク社会論、デジタル人類学・社会学研究者のブログです。

「情報行動研究における質問紙調査とログデータ」

「日本人の情報行動調査」は、東京大学大学院情報学環を主軸とする研究プロジェクトで、1995年から5年ごとに全国調査を実施しています(小職は、2015年調査、2020年調査に参加させていただきました)。その最新調査である2020年調査にもとづき、日本人のメディア利用行動やコミュニケーション行動に関する、詳細な利用実態、メディア環境変化のデータと先端的研究主題に関する論考をまとめた『日本人の情報行動2020』(橋元良明編)が、2021年8月31日、東京大学出版会から出版されました。

 概要と目次はこちらをご覧ください。http://www.utp.or.jp/book/b584541.html

 

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 『日本人の情報行動2020』は、大きく、調査の概要に沿って情報行動の全般的分析を行う第1部と、プロジェクトに参加した研究者がそれぞれ独自の観点で分析を行った論考からなる第2部に分かれています。

 小職は、第1部では、SNS利用と動画サービスの分析を行いました。SNS利用については、現代日本社会で利用率の高い、LINE、InstagramFacebookTwitterの4SNSを「LIFT」としてまとめ、利用者属性の違いを明らかにしています。また、動画サービスは、動画共有、放送番組配信、ライブ動画配信、オンデマンド型動画配信、無料ネット放送と多元化していますが、これらネット動画サービスの相互利用と、さらにSNS利用、ニュース接触行動との関係を探索すると、SNSや動画サイトなどを積極的に活用し、情報メディア環境を自在に闊歩する層が一方で拡大してきているのに対して、依然としてアナログマスメディアが情報摂取の主要手段であり、ネットメディアに消極的な層が根強く存在する様子が窺えました。

 第2部では「情報行動研究における質問紙調査とログデータ」と題した第7章を執筆しました。「日本人の情報行動」調査は、質問紙調査により実施していますが、情報行動研究の方法論という観点から、スマホ利用は、大きな挑戦的課題となっています。スマホは、無意識的、間欠的操作が多発するとともに、多種多様なアプリ、サービス、サイトが利用可能で、利用目的や行動種類が多元化しており、自己申告式質問紙調査でそうした操作、利用を捉えることは困難です。他方、小職は、2017年からLDASU(Log Data Analysis of Smartphone Use、「エルダス」と読ませる)というスマホアプリ起動ログ自動収集データの学術的分析を行う共同研究プロジェクトに取り組んでいます。LDASUでは、スマホ利用者のアプリ実利用データ取得・分析事業を手掛けているフラー株式会社(https://www.fuller-inc.com/)が、モニターの同意を得て収集したスマホ起動ログが分析対象です。Androidスマホのみが対象(iOSは対象外)ですが、モニターの登録端末で、操作が行われ、あるアプリがスマホの最前面になると、その日時(1秒単位)と当該アプリ情報がログとして記録されます。

 こうしたスマホ起動ログのビッグデータは、質問紙調査では捉えることが難しいスマホ利用の詳細な分析を可能にすることはいうまでもありません。しかし、こうしたビックデータが、スマホ利用を一挙手一投足捉える「客観的」データだと捉えることはナイーブすぎます。AI、ビッグデータについてはその可能性から万能のような印象を持つ方がいるかもしれませんが、実際に分析に関わると、ビッグデータもまたデータ毎の特性をもった「調査構築物」であることが明確となります。そこで拙稿では、「日本人の情報行動」調査データとスマホ起動ログデータを体系的に比較し、とくに「孤独感」や「スマホ依存」といった精神的健康と質問紙データ、ログデータとの関連性を探究しています。データそれぞれの「調査構築物」としての特性について示唆に富む分析結果を議論しており、ご一読いただければ幸いです。

 なお、共同研究パートナーであるフラー社には、拙稿の学術的観点を十分にご理解くださり、分析結果をまとめ、公表することに積極的なサポートをいただきました。ここに記して謝意を表します。また、小職はフラー社から経済的利益の提供を一切受けてないことも申し添えます。

 

 

 

「ポストコロナ社会」を構想する視座

 「「失われた30年」(1991年~2020年)とは何か?」という拙ブログ記事で、アメリカ留学からみたときにも、「失われた30年」は、日本社会がグローバル社会で相対的地位を低下させてきた現実であることを議論しました。

 ただ、それは、量的存在感のことであり、むしろ、冷戦時代の高度成長・バブル期に形成された日欧米3極構造の幻影という頸木(これが、「デジタルネイティブ(1980年生以降)」よりも前、団塊ジュニアまでの世代=依然として日本社会の6割以上を占め、社会をコントロールしている層に根深く刻まれている幻影)から私たちを解放し、21世紀の日本社会を構想することが必要だと思います。ここでは、ユヴァル・ハラリの世界的ベストセラー『ホモ・デウス』を手掛かりに「ポストコロナ社会」を構想することを介して、これからの日本社会の方向性を考えてみます。『ホモ・デウス』を手掛かりにした「ポストコロナ社会」の構想というのは、審査委員長を務めている公益財団法人昭和池田記念財団の学生論文賞冊子向けに小文を執筆したのがきっかけです。この記事は、ブログで公開することについて、財団の承諾を得て、小文をもとに発展させたものです。十分にまとまった思索ではなく、思い付きの域を出ないものですが、お付き合いいただく方がいらっしゃれば、幸いです

 


 2020年代が新型コロナパンデミックで幕を開けることになると誰が予想したでしょう。

 周知のように、21世紀における傑出した人文学者であるユヴァル・ハラリは、世界的ベストセラー『ホモ・デウス』において、人類が長年にわたり対峙してきた、「飢饉」、「疫病」、「戦争」という3つの難題を、人類は20世紀克服しつつあり、21世紀の人類は、アルゴリズム的世界観、人間観をもとに、「不死」「幸福」「神性」の3つの難題を追求するとの議論を展開しました。

 新型コロナについても、ハラルは、洞察力に富んだ発言をしていますが(例えば、河出書房新社のウェブサイト(http://web.kawade.co.jp/bungei-cat/bungei-2/)では、海外新聞・雑誌へのハラルの寄稿の和訳を読むことができます)、『ホモ・デウス』の議論の枠組みをもとに考えれば、克服したと思われた「疫病」は、けして過去のものではなく、20世紀までの遺物にはなっていなかったことを改めて人類に自然が突き付けたということでしょう。そして、新型コロナを巡る闘いが、領域国家に境界線を改めて強めるとともに、人類社会の枠組み自体をめぐるイデオロギー対立も20世紀の遺物ではないことが露呈しました。

多数の人々が現実に血を流す世界規模の「戦争」は回避され続けるかもしれませんが、宇宙空間、ネット空間を含めた「超限戦」、社会的生活空間全体が絶えず戦場と化す社会が到来しているようにも思われます。そして、人口増加と自然環境の悪化は、新型コロナによって一時的にブレーキがかけられても、食料、水資源を巡る争いは水面下で絶えず蠢いています。

 つまり、ハラリの議論の枠組みのように、20世紀までの問題が克服され、21世紀からの挑戦が生起しているというよりも、20世紀までの問題は、依然として人類にとって脅威であり、それが21世紀の欲望と複合することで、人類社会は、新たな課題に立ち向かうことになるでしょう。

 ハラリが21世紀に人類が追求する挑戦とした「不死」「幸福」「神性」は、これまでの人類においても、やはり強く希求されていたものです。ただ、従来は「夢物語」であった欲望の対象が、テクノロジーによって、実現可能かもしれない。ここで大きな社会的課題は、その実現可能性が、「すべての人類にとって」、ではなく、「一部の人類と、人類とテクノロジーが組み合わされた新たな人類(ホモ・デウス)にとって」かもしれないという点です。実際、多様なインセンティブ、利便性を与えて、人々にテクノロジー利用を促し、そのデータを駆使して富を生み出し、支配する構造が現実に拡大しています。

 「ポストコロナ社会」は、人々が直接接触することを回避する傾向を促し、デジタル空間、仮想現実(VR)、アナログ現実空間とデジタル仮想空間とが混在する拡張現実(AR)が、わたしたちの日常生活空間に深く組み込まれていくと思います。このような「ポストコロナ社会」において、「不死」「幸福」「神性」を、一部の人々のみが可能性を追求、享受できる社会とするのか、多くの人々に可能性を拓くのかは、それぞれの社会が考えることです。日本は、21世紀グローバル社会において、量的には縮小していきますが、相対的少数でありながら、一定規模の社会集団、市場規模、技術開発力を維持できることもまた明らかです。そこで、グローバル社会において、日本社会が社会総体として「ホモ・デウス」を積極的に目指してはどうでしょうか?

 少子高齢化の深刻化から、介護、育児、モビリティの分野で、AI、ロボティクス、ネットワークの進展は不可避です。そうした社会的ニーズをドライブとしながら、デジタルネットワークテクノロジーを活用し、「不死」「幸福」「神性」を積極的に目指す社会。日本社会はすでに平均寿命が世界で最も長くなっています。おそらく、「神性」が鍵で、「ホモ・デウス」的「神」は、強い個性、我があり、思うがままに振る舞う存在です。もちろん、社会的動物である以上、各自がただ我を張るだけではうまくいきません。さらに、「ホモ・デウス」の「神性」で重要となるのは、「テクノロジーと接合することによる人類の増強」という点です。社会にその力を還元できるような個人の願望、新たな力を積極的に伸ばそうとすること。ここで小職がイメージするのは、藤井聡太九段を筆頭とする将棋界の革新です。拙ブログ記事(「機械とヒト」)でも議論したように、ヒトは、AI同士の闘いにはさほど興味は持ちません。ヒトがAIと組み合わさり、そうしたホモ・デウス同士の切磋琢磨に熱狂するのです。

 こうした人類の増強という視点を社会に拡大するには、教育を大きく変える必要があるでしょう。そして、多くの人が「神性」を目指し、実現できるには、多様性、多元性を社会的に認める寛容性が必須であり、それが「幸福」につながると思うのです。

 今回も拙文にお付き合いくださり、誠にありがとうございました。

「失われた30年」(1991年~2020年)とは何か?~アメリカ留学からみるグローバル社会における日本の相対的位置~

2020年度、21年度、新型コロナ禍は、大学生たちの生活、活動を大きく変えてしまいましたが、「留学」は、その中でも、最も大きな影響を受けた活動の一つです。立教大学社会学部でも、留学を計画しながら、延期せざるをえない学生たちが多くいます。そこで、学生たちに、グローバル社会、異文化への関心を高めてもらうため、教員が「異文化体験を語る」連続講演会(社会学部国際化推進委員会主催)が、21年度、オンラインで開催されました。

そこでわたしも話すことになり、30年ほど前にアメリカ大学院に留学した際のことを思い出し、改めて、留学を巡る社会環境について調べる機会となりました。講演会で話した概要は、社会学部HPで紹介されています。

https://sociology.rikkyo.ac.jp/news/2021/hc09nv00000024zk.html

ここでは、そこで認識を新たにしたアメリカ大学院留学を巡る社会環境の変化(講演では時間の関係もあり十分に触れることができませんでした)を皆さんと共有したいと思います。以下の記事は、留学に詳しい方には既知のことかと思いますが、わたし自身は、自分が留学したとき、どのような社会状況だったのかを自省的に考えたことがなかったため、振り返るいい機会となり、同時に、この30年間におけるグローバル社会の変化とそこでの日本の立ち位置の変化を改めて確認する機会となったため、ブログ記事にしようと思った次第です。

 


 わたしは、学部から大学院と文化人類学を専攻したのですが、その中でも専門特殊性が高い「認知人類学」に強い関心を持っていました。ただ、日本では専門とする研究者はほとんどおらず、当該分野の中心的研究者の一人(Dr. Charles Frake)が、ちょうどスタンフォード大からニューヨーク州立大バッファロー校(SUNY at Buffalo, UB)に移動したため、UBに1990年留学しました。

 いま改めて時代背景を振り返ると、1985年プラザ合意によって、円高が急激に進み(合意前1ドル260円程度から88年には120円台まで、円の価値は3年で倍以上に)、80年代後半のバブル経済を生み出すとともに、海外旅行、留学が拡がり始める時期にあたっていました(当時は、そうと明確に自覚していたわけではありませんでしたが)。図1は、1970年~2020年のドル円レート(月次平均)と円の実質実効為替レート指数(2010年=100)を示したものです。赤枠で囲った部分が、プラザ合意からバブル景気と呼ばれる時期で、わたしが留学した(できた)のは、急激な円高があってのことでした。

 

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図1 1970年~2020年のドル円レート(月次平均、左軸)と円実質実効為替レート指数(2010年=100、右軸)

 

 高等教育留学生をみると、1989年頃から留学者数が増加し始めていることが分かります。図2は、文部科学省JASSO日本学生支援機構)、IIE(Institute of International Education、米国国際教育研究所、https://opendoorsdata.org/)、アメリカ教育省国立教育統計センター(NCES)、OECD、UNESCO、総務省人口統計からまとめたデータです。A(青線)は、その年10月現在の20歳日本人人口です。左軸、単位は百人で、1992~94年(1972~74年生、団塊ジュニア世代)が200万人を越えでピークを形成し、その後は、少子化の影響で徐々に減少し、2010年代には120万人台の水準まで下がっていきます。B(オレンジ線)は、海外の高等教育機関に留学した日本人数です。日本人留学生数は89年に2万人を初めて越え、90年代を通して増加して、2003年には8万人に達します。

 高等教育留学は、20歳だけではなく、一人が1年のみではない(数年もあれば、数カ月もあります)ですが、参考までに、その年の留学生数を20歳人口で割ったのがB/A(薄緑色の縦棒)です。これをみると、80年代1%程度が、90年代から2000年代にかけて5%超まで増加します。2008年のリーマンショックを機に実数、割合とも減少しますが、2010年代、毎年6万人程度、B/Aは5%程度で安定してきました(2020年以降は新型コロナ禍で激変するでしょうが)。

 

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図2 高等教育日本人留学関連データ  

 

 C(緑線)は、米高等教育機関への留学生(正規課程修学者)の推移です。84年にはわずか1万3千人が、89年約3万、94年4万5千と、プラザ合意からバブル期を経て急増します。米高等教育機関への留学生全体に日本人の占める割合も、84年に3.8%が、94年に10%(45万人中の4.5万人強)と最大の国・地域となりました。

 冷戦終結時、自由主義世界は、アメリカ(2.5億人)、欧州(英独仏で2億人)、日本(1.2億人)が三極を形成し、科学技術研究においても、日本はグローバル社会で主要な地位を占めていました。図3は、『科学技術要覧』による国・地域別研究者数推移ですが、1990年代までは、EU、米国、日本が3極を形成していたことが分かります。

 その後、2000年代に入り、グローバル化が進展する中で、日本社会は相対的に縮小しつつあります。図3からは、研究者数が2000年から2020年の20年間に、日本の場合1.1倍程度の増加に留まるのに対して、EU2倍、米国1.5倍と着実に拡大し、さらに中国が2.5倍と急伸する様子がみてとれます。

 2019年度、米高等教育機関は、世界各地から100万人強の留学生(正規課程修学)を集めていますが、図4にあるように、中国が35%、インドが18%と2地域で過半を占め、日本からは1.7万人と2%に満たないのです(図5も参照)。図2のD(紫線)にあるように、短期交換留学生は日本全体で10万人と増加し、D/A(20歳人口における交換留学生数の割合、濃い緑縦棒)は10%近くと、10人に一人の大学生が交換留学を経験する時代ともいえますが、正規留学生は横ばいであり、日本社会の学術研究力という観点からは、改めて正規留学生の数が増えることが望ましいと思います。

 

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図3 国・地域別研究者数推移(出展:『科学技術要覧令和2年度版』 図8-1

https://www.mext.go.jp/content/20210810-mxt_chousei01-000017284_08.xlsx

 

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図4 2019年度米高等教育機関正規留学生の国・地域別割合(出展:IIEホームページ、https://opendoorsdata.org/wp-content/uploads/2020/11/CENSUS-2020-Top-10-Places-of-Origin-for-International-Students.jpg

 

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図5 米高等教育機関正規留学生における日韓中の割合推移

 

 このように留学という観点からみても、日本社会のバブル崩壊後は「失われた30年」であり、それは、グローバル社会における相対的地位の低下という直視すべき現実です。図6は、国連人口推計にもとづき、世界人口に占める、日本、米、英独仏、中国の割合を示したものです。左軸、右軸とも%ですが、日米英独仏(折れ線グラフ)が左軸、中国(縦棒グラフ)が右軸です。中国は第二次大戦後、現在まで2割程度の規模を維持していますが、日米英独仏の5カ国もまた、1950年に15%以上、1990年でも1割以上の人口を占め、冷戦期の自由主義陣営で考えれば、これら5か国(+加、伊のG7)が中核地域を形成していました。しかし、1990年代から、アメリカは徐々に相対的に小さくなりつつあるとはいえ、世界人口の4%以上、英独仏も他のEU圏を含めれば1割程度(7億人以上)を占めるのに対して、日本社会は2%以上だったものが、1.5%以下へと減少していきます。

 

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図6 世界人口に占める日本、米、英独仏、中国の割合推移(データ出展:国連人口推計、https://www.un.org/development/desa/pd/

 

 21世紀、こうしたトレンドは、一層進むことはあっても、反転させることはほとんど不可能といっていいでしょう。では、私たちはどうしたらいいのか? 「ポストコロナ社会」という観点から、記事を改めて考えたいのですが、ここでは、留学という観点で、いまの大学生にメッセージしたいと思います。

日本社会がこれからも縮小均衡を続けることを念頭に置くと、いまの大学生には、日本という枠に囚われず、グローバル社会で活動できる力を身につけて欲しいと切に願います。人類社会、グローバル社会で、他の社会、文化の人々と交流し、自分の価値を高め、社会的に活動できる力を身につける意思を持ってもらえれば。そうした若者が増えれば増えるほど、日本社会全体の力もまた増すことになると考えます。また、若者がそうした積極性を発揮できるインセンティブを社会として提供する必要があり、教育に社会としてもっと投資すべきだと思います。

今回も、拙文にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

 

 

 

 

 

立教大学院社会学研究科がホット/クール??(志願者急増の謎)

 この記事は、立教大学社会学研究科の受験を考えている方を対象としています。予めご承知おきください。また、本記事は、「グローバル化の進展と文系大学院教育」で議論したことに多くを基づいています。まだご覧になっていらっしゃらない方は、是非、合わせてお読みください。


 まず下図をみてください。これは、立教院社会学研究科、一橋院社会学研究科、博士前期(修士)課程志願者数の推移です。2010年代、一橋は200~250名程度で推移しているのに対して、立教は30名程度から2017年度実施入試では初めて100名を越え、今年度(2018年度)実施入試は、秋季入試だけで80名近く、春季(2019年2月実施予定)を合わせると150名は優に超える予測です(6年で5倍です)。

 

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一橋院社会・立教院社会の志願者数の推移


 

 一橋社会学研究科は、専任教員が60名程度、修士課程学生定員90名超という日本最大の「社会学研究科」ですが、立教社会学研究科も専任教員は30名を越え、「社会学研究科」としては世界的にみても規模が大きく、多様な研究者を擁しています。他方、私学であることから、修士課程学生定員は20名と小規模です。大学院教育という観点からみると、一橋は学生数が多く、互いに切磋琢磨できる環境、立教は教員と院生との距離が近く、より丁寧に指導を受けられる環境、と特徴づけることができるでしょう。
 また、立教は比較的狭小な立地を活かし、図書館、院生室などの施設、院生が研究し、発表する機会支援(各種奨学金、学会発表・研究活動支援、紀要発行支援など)が充実していることも特徴です。

 カリキュラムでは、「プロジェクト研究」が修士で必修になっていることが特筆すべき点です。日本の人文・社会系大学院教育では、社会で求められる能力と大学院で身につく能力との整合性が大きな課題とされ、「他者と協働する力」「自ら課題を発見し解決に挑む力」などを涵養するため、「チームワークを重視したワークショップやプロジェクト形式による授業や課題」などの授業・研究指導実践が必要と指摘されてきました。

 「プロジェクト研究」という科目は、2014年度から導入され、特定課題に関する研究プロジェクトを、大学院生と複数の教員が協働して取り組むものです。計画の立案、調査の実施、結果の分析、報告書の作成というプロセスを経験する中で、社会学の研究能力を養成するアクティブラーニング型教育プロジェクトであり、上記のような人文・社会系大学院教育の課題に積極的に応えるものとなっています。(20181226追加)

 2010年代、立教院社会志願者増加が、こうした条件、環境によるのかは不明ですが(増加の原因はよくわかっていないのです)、結果として、下図にあるように、立教院社会は合格率が2割程度と競争率が高い研究科となっています。図から明らかなように、2012年度から2014年度は、立教と一橋はともに、合格率が3分の1程度で、定員の規模に応じた志願者数と合格者数だったわけですが、2015年度から、立教院社会は、志願者増加が顕著となり、合格することが難しい研究科となってきています。

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一橋院社会・立教院社会の志願者・合格者数、合格率の推移

 実際、昨今の例に漏れず、大学院で社会学研究科を志望していても、学部で社会学が専攻だった受験者はほとんどいませんが、入学している院生たちの知的水準は高く、知的欲求、学習意欲、修士論文に取り組む意思も強いものがあります。
 2018年9月、THE(Times Higher Education)の2019年版世界大学ランキングが公表されました。

World University Rankings 2019 | Times Higher Education (THE)

 下表は、ランキング入りした日本の大学上位校を一覧にしたものです。立教は日本の大学で21位(私学に限れば8位)、世界ランクで601~800位水準に位置しています。「グローバル化の進展と文系大学院教育」で、スペイン公的研究組織Consejo Superior de Investigaciones Científicas (CSIC)による"Webometrics Ranking of World Universities"(http://www.webometrics.info/)データを紹介しましたが、世界には高等教育機関が26000以上存在しており、世界ランク601~800位というのは、世界のトップ5%水準には入っているということです。

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THE世界大学ランキング2019(日本の大学上位)

 やはり、「グローバル化の進展と文系大学院教育」で議論しましたが、日本の大学院教育では、東大、京大、早大、慶大といったブランドの意味はなくなっています。拙記事の繰り返しになりますが、大学院レベルの研究では、指導教員の研究力・教育力、指導教員とうまくコミュニケーションできるか、円滑な関係を築けるかが決定的です。自分のやりたいことと当該教員とのマッチングを真剣に考えてください。
 立教院社会の特徴の一つは、学部で「メディア社会学科」を擁しており、メディア研究の専門家が多いことです。しかも、メディア史、テレビ、新聞、雑誌、グローバルメディア、表象、ソーシャルメディア、インターネットと多様なメディア研究の専門家が集積しています。小職は、文化人類学を出自として、インターネット研究に取り組み、ビッグデータにも積極的な研究者ですが、同僚の和田伸一郎先生は、哲学が出自でありながら、近年Pythonによる計量テキスト分析に「ハマって」おり、GoogleのTensorFlowを駆使されています。

 先に紹介した「プロジェクト研究」でも、小職と和田先生が共同で、IT企業の協力ももらいながら、大規模なソーシャルデータ分析に取り組んでいます。2020年度からは理学系研究科とも協力し、さらにパワーアップしたいと考えています。(20181226追加)「ハイブリッド・エスノグラフィー」など新たなデジタル社会学の展開を志したい、意欲的な人、大歓迎です。

 本記事を最後までお目通しくださり、ありがとうございました!

 

拙著『ハイブリッド・エスノグラフィー』刊行

この記事は、拙著のパブリシティを意図しております。お読みいただく場合には、予めご承知おきください。

 2018年11月1日付で、『ハイブリッド・エスノグラフィー~ネットワークコミュニケーション(NC)研究の質的方法と実践』を新曜社より上梓しました。

新曜社サイトでの拙著の紹介

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https://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1583-3.htm

http://shin-yo-sha.fan.coocan.jp/book/1583-3.pdf

では、「はじめに」の抜粋もあり、拙著の立脚点、目論見の大要をご覧いただけますので、是非お目通しいただければと思います。

 抜粋にもありますが、拙著は、次の3つの関心領域が重なる合う地点での、小職の調査研究活動の積み重ねです。

  1. ネットワークコミュニケーション研究とそこでの質的(エスノグラフィー)アプローチの果たす役割
  2. 質的研究、エスノグラフィーに関する方法論的議論(他/多分野におけるエスノグラフィーへの関心の高まりと人類学における懐疑・模索)
  3. デジタルネットワーク拡大に伴う方法論的革新、とくに、〈定性〉〈定量〉を対称的に扱い、複合的に調査、分析を行う方法論(これを本書は「ハイブリッドメソッド」と呼ぶ)の必要性。

 つまり、拙著は、まず第一に読者として、「ネットワークコミュニケーション」、「エスノグラフィー」、「定性・定量混合(融合)方法論(mixed methods)」のいずれかのクロスに関心ある研究者を想定しています。

 本書に至る道筋は長く、その発端となる研究は2007年度の科研費(「サイバー・エスノグラフィーの方法論的基礎に関する調査研究」)、本書の構想を新曜社の塩浦社長にお話ししたのが2010年のことです。

 その後、紆余曲折、「遅々として進み」、本文を一通り執筆し終えたのが2017年8月。なるべく早くと思っていたのですが、かけた歳月の分、内容は多岐にわたり、分量ばかり多くなり、なかなか編集、校正を終えられず、今回、ようやく上梓に漕ぎつけました(ほんとうに、実感として、「漕ぎつけた」感じです)。

 拙著は「学術書」で、いかにも生硬な学術的議論を展開しておりますが、広く一般の方にも関心を持っていただけそうなのが、第10章「ネット世論の構造」です。 第10章に関連しては、すでに、いくつかの論稿を公刊しております。ネットでもアクセスできるものもありますので、ご覧いただければ幸いです。 

 上記論稿では、拙著がまもなく公刊されることを前提に、拙著を参照しております。とくに、具体的なニュースサイトコメント欄の精緻な分析は、拙著第10章でのみ展開しております。例えば、 

  • コメント投稿者が「尖った」少数と「穏やかな」多数に分かれ、「尖った」少数については、PRS(Positive Response Seekers、自分のコメントへの「加点」を求める投稿者)とIA(Insulting Attackers、罵詈雑言を投げつける投稿者)の具体的な様子を明らかに。 
  • 投稿者IDと投稿IPアドレスとのネットワーク分析 
  • 具体的にどのような記事に対して、いかなる投稿がなされたのか?「非マイノリティポリティクス」と筆者が呼ぶに至る、ネット世論の主旋律を構成する政治的な態度の具体的様相

といった分析です。 これだけでも拙著を別途見ていただく価値があると考えておりますが、「ネット世論」研究以外にも、ネットワーク・コミュニケーション研究という文脈における定量・定性を組み合わせた方法論と、若手研究者を念頭においた、具体的なリサーチデザイン、「ハイブリッド・エスノグラフィー」という方法、「ビジネスエスノグラフィー」、日米デジタルネイティブ比較により浮かび上がる日本社会の対人関係ネットワーク規模の分析、など、それぞれに、小職なりのこれまでの研究をできる限り詰め込んでおります。

 また、拙著は、1頁の収容字数をできる限り増やし、ソフトカバーにするなど、数多くの工夫をして、少しでも手に取っていただきやすい水準になるよう努力しました。 ここ10年程、格闘してきた方法論に関して、小職なりには、まとめることができたと感じております。皆さまには、何かの機会がありましたら、書店・図書館等で手に取っていただければ幸いです。

 最後まで目を通してくださり、誠にありがとうございました!

World Internet Project フランス国際会議

 WIP(World Internet Project)は、1999年から活動を開始し、2017年9月現在で東欧、中東、中南米地域も含む39カ国の研究チームが参加する国際的なインターネット利用行動調査プロジェクトです。

https://www.worldinternetproject.com/

 WIP日本チームは2000年からWIPに参加しており、日本のインターネット利用実態について調査研究を行っています。

 WIPは毎年国際会議を開催しており、2018年は、この7月2日~6日、フランスで行われました。日程の関係で、パリの行事には出席できませんでしたが、小職は、Brestでの会議に出席し、2つの発表を行いました。

 小職は日本チームの一員として10年近く活動していますが、WIP国際会議に出るのは初めてでした。この国際会議は、通常の大規模な学会のように、たくさんのプログラムが並行して走るのとは違い、30人程度の参加者全員がすべてのセッションに参加し、Brestだけでも3日間、時間と場所をともにして、研究発表、プロジェクトの進め方に関する議論を、ひざを突き合わせて行います。長年にわたる国際共同プロジェクトで、互いによく知っている研究者たちと同時に、小職のように初めて参加する研究者たちもいますが、会議を通して、交流を深め、互いをよく知ることができます。

 今回は10か国から研究者が集まり、それぞれの研究成果を共有しましたが、強く印象づけられたのは、スマホの普遍性と利用の個別性です。スマホは、いずれの主要産業国においても、成人での利用率8割から9割に達しており、2010年代、私たちの生活を大きく塗り替えてきています。ただ、具体的にどのようなアプリ、利用法が、どう拡がるかは、社会文化によって大きく異なります。ここでは、印象深かったスウェーデンチームの報告を少し紹介します。
 下図をみてください。これは、

cartina.se

 にある図ですが、年代毎の主要ソーシャルメディア利用率です。
 それぞれのグラフの左から、
YoutubeFacebookSkypeInstagram、Snapchat、LinkedIn、WhatsApp、TwitterPinterestReddit
ソーシャルメディアを表し、
利用率の縦棒で、上がやや薄く、下が濃い色になっていますが、上部が1日1回未満、下部が1日1回以上の割合を示します。

 

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 Youtubeが75歳までで最も利用率が高く、とくに12~25歳では利用率100%、毎日アクセスが7割~9割と高頻度利用ですが、20代後半からは毎日利用は激減します。Facebookは高齢者でも半分程度の利用率があり、しかも毎日アクセスする人が(10代前半を除いて)利用者の半数~8割程度を占めています。個人的にはInstagramが中高年層にまで利用されていることと、Snapchatが10代から30代前半Twitter以上に利用率が高いことが意外でした。

 話をきくと、Instagramは、日本のように、少し着飾った、晴れのメディア(日本では、「インスタ映え」のように、インスタにやや非日常性を求める面があると思います)ではなく、日常的な写真共有サイトとして利用されているようです。Snapchatは日本ではやらないのがむしろ謎で、世界的に見て10代を中心に利用されていると思います。また、面白かった逸話は、発表したスウェーデンの研究者の場合、大学生のお子さんと、FacebookInstagram、Snapchatではつながっているそうですが、Twitterは、ブロックされたそうです。それぞれの社会で、多様なソーシャルメディアが、独自の社会文化的文脈を形成し、人々に利用される様子は、文化人類学が知的出自である小職にとって、とても興味深いものです。

 ところで、Brestはパリから600キロほど西、フランスの西端で、軍港がある人口14万人ほどの穏やかな街でした。日本人には一度も会いませんでしたが、Brestにも、面白日本語表記はありました。「Superdry」というスポーツウェアのブランドの店ですが、写真にあるように、「極度乾燥(しなさい)」という日本語が添えられています。

 

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 また、ココロ温まる出来事もありました。
 ホテルから会議場まで、2キロほどですが、トラム(路面電車)がちょうどうまい具合に走っていたので、トラムに乗ることにしました。ところが、乗車券をどこで買って、どう乗ればよいか分からず、駅で待っている中年男性に教えてもらうため、声をかけました。
 彼は「何回乗るのか?」ときくので、「1度です」と答えると、彼はジャケットのポケットから、乗車券(紙のカード)を出して、「これをあげるから、使って」と言いました。
 話を聞くと、彼のカードは「10回券」で1回分残っていました。そこで、あと1回分を小職にくれたのです(1回券だと1.6ユーロ、10回券だと1回分は1.25ユーロ)。
 さて、2日後、少しずれた時間帯で、またトラムに乗ろうとしていると(今回は勝手がわかっていますから、乗車券はすでに持っています)、あの男性がまた現れたのです!小さい街で、通勤時間帯ということが幸いしました。嬉しくなって、写真を一緒に撮らせてもらいました!(あえて、supersmall(極度小型)にしてます)

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 人類は「社会的動物」です。社会=国民国家の役割は依然として大きいわけですが、人類社会として、互いを尊重し、ヒト同士が交流することもまたとても重要であることを、今回改めて認識しました。文化人類学徒として、多文化社会、共生社会を自明視していた面もあるのですが、21世紀、グローバル化、ネットワーク化の進展は、異なる社会集団同士、互いに差異を明確にし、「自社会ファースト」の傾向もまた強めているように思います。やはり、一人ひとり、多様な人々と交流することが、国際社会を形成する礎であり、小職のゼミ生たち、立教の学生たちはじめ、内向きといわれる現代日本社会の若い人々には、積極的に国外に出かけて、交流してほしいと強く願います。

 今回も、最後まで目を通してくださり、ありがとうございました。

 

 

「キュレーション型剽窃」の悪質さ~若手研究者研究倫理の現状~

キュレーション(Curation)世代にとって剽窃(plagiarism)は当たり前なのか?(怒)

 

 わたしは、ある公益財団法人が主催する大学(院)生を対象とした顕彰論文事業の審査委員長を務めています。
 今年度の審査で、最終論文選考に残った応募論文のうち、2件で、悪質と判断される「剽窃(plagiarism)」を発見しました。
 2016年11月、キュレーションサイトWelqが大きな問題となりましたが、ネット上に学術的情報(もちろん玉石混交)も溢れかえり、いつでもどこでもアクセスできる状況で育った学生たちの中には、レポート、論文において、参照した資料・文献に言及しないで「キュレーション」することを当然と思っている学生も少なからずいるように思われます。
 しかし、他者が苦心して紡ぎだした言葉を、きちんと言及せずに、あたかも自分が紡いだかのように書く行為は、「剽窃(plagiarism)」であり、学術的行為として唾棄すべきものです。Google Scholarという学術論文検索サービスのトップページには、"Stand on the shoulders of giants" (「巨人の肩の上に立つ」)という言葉があります。この思想は中世にまで少なくとも遡り、Issac Newtonが1675年にRober Hookeに宛てた手紙において、"if I have seen further, it is by standing on the shoulders of giants." と書いたことも広く知られています(https://digitallibrary.hsp.org/index.php/Detail/objects/9792にデジタル化された手紙と説明があります)。学術的活動は、先人たちの無数の知的活動の上に成り立っており、剽窃行為は、そうした知的活動の積み重ねを蔑ろにする知的軽薄さ、愚かさを露わにしているのです。 

 今回、顕彰論文に応募するという行為を行い、しかも、その内容自体は、最終選考まで残ったという意味では、優れた部分のある論文を投稿していながら、実は、「剽窃(plagiarism)」しているという学生が2名もいたことに、わたしは慄然とし、不気味さと静かですがこの上もない深い怒りを感じました。

 まず、どんな手口か、そして、小細工はいとも簡単にバレル現状があることを、具体的に示したいと思います。

 

図1 「キュレーション型剽窃」応募論文・類似性判定結果(例1)

 

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図2 「キュレーション型剽窃」応募論文・類似性判定結果(例2)

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 図1、図2が、問題の2つの論文の一部で、「類似性判定ソフト」適用の結果を示しています。応募者の今後のことも考え、文章自体はわからないような画像処理をしました。両方とも、全体の一部で、これ以外にも「キュレーション」があります。また、図2の場合、段落と段落が離れている部分は、該当箇所を少し飛ばして中略状態となっているところです。

 色が異なるウェブ情報源であることを示しており、ところどころにある四角い部分(文章自体の少し上にある)は、数字が白抜きになっていて、該当する具体的なウェブ上のページにとんで確認できるようになっています。

 図1の学生は、論文全体の枠組みとなる理論的展開の部分で、主として2つの資料を用いていましたが、どちらも、本文中、参考文献に、一切言及がありませんでした。

 図2の学生は、図からも明らかなように、論文全体で、何種類もの資料をつまみ食いしていますが、こちらも、本文中、参考文献に、一切言及がありません。

 これら「キュレーション型剽窃」がとくに悪質と感じるのは、他人の文章をそのままパクる部分もありますが、元の文章の一部を変えたり、つまみ食いをしたりすることで、「自分の文章だ」感を出そうとしているように見える点にあります。今回の審査論文ではないのですが、以前わたしが発見した本当に悪質なものは、ある論文をほとんど丸ごと用いていながら、徹底的に切り刻んで自分の論文としているものがありました。

 「丸写し」ももちろんダメですが、わたしのようなデジタル移民にとって、「キュレーション型剽窃」はより「悪質」に思えます。しかし、上記のような例をみるにつけ、デジタルネイティブ世代では、デジタル化された元の文書をアレンジして、自分のものにすることに抵抗感や罪悪感がないのかもしれません。切り刻むのは、やはり、どこかで自分のものにしなければという意識が働いているように思いますが、そうしてしまえば、問題ないのだといった認識があるようにも思われます。

 しかし、まず、若手研究者、学生の皆さんに強調したいのは、「キュレーション型剽窃」は、やはり、「剽窃」であり、「学術倫理としてやってはいけないことだ」という認識をまずしっかりもってもらいたいのです。

 剽窃をした学生の言い訳をきくと、「自分の思っていたことが書いてあった」といったことをいう場合があります。ですが、この言い訳は、「自分が(漠然と)思っていることを、具体的言葉にするのが、いかに大変か」ということであり、自分が剽窃した相手が、どれだけその表現に至るまでに考えたか、という想像力が一切欠けているのです。

 レポート、論文を自分の言葉で書くことの大変さは、皆さん、十分身に染みて分かっていると思います。とすれば、安易に剽窃などすべきでないことも分かるはすです。その言葉を紡いだ他者に敬意をもって、きちんと言及する必要があるのです。

 「丸写し」してきちんと、誰がどの論文(書籍)のどのページで言ったのかを明示すればいいのです。それを踏まえて、自分はどう考える、という論(こちらが主で、引用はあくまで従であることもいうまでもありません)を展開するから「論文」となるわけです。
 丸写しでなく、自分が要領よくまとめた場合も、誰々のどの論文(書籍)で言われていることを自分なりにまとめる、と明示すればいい。それを一切言及せずに、適当にキュレーションして、自分の文章としてしまったら、それは元の著者への敬意を欠いた失礼な行為(著作権法違反にもなります)であり、けして行ってはならないのです。

 今回の上述2投稿論文は、もともとの著者たちを無視するという侮辱を行っているとともに、そうした論文で顕彰受賞しようとしたという意味で、審査委員も侮辱していることになります。おそらく、応募者の若手研究者たちには、そうした意識はないのでしょう。しかし、ないままに、学術研究の道にこのまま入っていくと、あとでとんでもないことになります。もし、応募者で、この拙文を読んで、心当たりのある人がいたら、これを機会に考えを改めてください。

 そして、もう一点、若手研究者、学生の皆さんに強調したいのは、こうした稚拙な狡賢い行為(と本人には自覚がないかもしれないですが)は、上述のように、現在の技術で、いとも簡単に検知ができるということです。これはいくら強調しすぎても、し過ぎることはありません。

 最後に、大学関係者、各種顕彰論文関係者の方々には、こうした現状を踏まえ、博論はもとより、修論、顕彰系審査対象論文で「類似性判定」を必須にすべきだという認識を共有し、実行に移す体制を構築してもらいたい思います。野放しにしない姿勢を学術界が示すことが、結果的に、良質な若手研究者を育てることになります。ザル審査をしていたら、せっかくの才能ある若手たちに、「キュレーション型剽窃」をしていいのだ、それでやっていけるのだ、という間違った認識を与えてしまいます。コストがかかるとすれば、公的組織が連携する必要があるかもしれません。
 わたしが関わっている規模の小さな顕彰論文審査ですら、ここで述べたような論文が投稿されました。この賞には7年以上かかわっていますが、こうした事態は初めてです。スマホ世代が大学生となり、「キュレーション型剽窃」傾向は今後拍車がかかると思われます。未然に食い止める必要性があることを痛切に感じています。もう一点、今回の最終審査には留学生のものも2点含まれていましたが、どちらも、引用はきちんと引用と明示し、自分の論を展開している見事なもので、上述の2論文は、日本国内の学生だったことも付け加えたいと思います。本当に、こうした剽窃論文を顕彰論文として堂々と応募してくる時代になってしまっていることに、哀しさすら覚えます。

 最後まで目を通してくださり、ありがとうございました。