木村忠正の仕事部屋(ブログ版)

ネットワーク社会論、デジタル人類学・社会学研究者のブログです。

「ボロは着てても心は錦」でいいのか?~グローバル学術研究の進展と日本の高等教育~

この記事は、日本の高等教育に関心のある方を念頭にしたものです。予めご承知おきください。

 筆者は、2022年度、23年度と、古巣である駒場キャンパスで、学部後期学生と大学院生向けの「ハイブリッド・エスノグラフィー」に関する演習を担当しました。ソーシャルデータが爆発する中で、文化人類学もまた、オンラインフィールドワークやログデータを用いたヴァーチュアル参与観察など、新たな可能性が広がっており、拙著をもとに、演習を行いました(ちなみに、αシノドスシノドスオープンキャンパス「ネットワーク社会の文化人類学」を寄稿しております。購読者の方はご高覧ください)。
 履修者は熱心で、短期(7週間)の演習にもかかわらず、レポートも充実したもので、担当者として嬉しく思いました。他方、11月末から1月にかけて、毎週駒場キャンパスに通ったのですが、駒場の設備の老朽化には、心が痛みました。
 駒場キャンパスは、銀杏並木が素晴らしいのですが、清掃費用をあまりかけられないのか、11月末は、並木には、雨風に晒された銀杏の葉が吹きさらしの状態で、風情を感じるどころではなくなっていました。演習を行った建物は、筆者自身が学生のとき(40年ほど前になります)にはすでに建っていたもので、比較的きれいに使われてはいますが、やはり時の経過は否めません。
 演習室の机、椅子、プロジェクターは、筆者が教員として在職中(2006~2015)に、2013年頃選定を担当し、納入されたものが、そのまま使われていました。机、椅子はよいとして、プロジェクターはさすがにくたびれていて、演習初日に投影画像がうまく映らなくなりました。そこで、代替プロジェクターをキャンパス全体の教務事務から貸し出してもらったのですが、HDMI端子がなく、D-sub端子でFHD対応のみの小型プロジェクタでした(これも10年以上前に思えました)。
 2018年の投稿で、「国立大学が直面している大きな課題の一つは、教育環境の整備だと思います。国立系は概して、施設・設備・システムについて、維持管理、修繕、更新、リノベーションの費用があまり考慮されません。そこで、新規に施設・設備・システムができたときはよいのですが、アップデートや修繕がままならず、新たに予算がつかないと徐々に時代遅れとなっていきます。」「昭和であれば、「ボロは着てても心は錦」でよかったかもしれません。しかし、すでに2020年代になろうとしている時期、国立がグローバルに戦うには、教育設備も先端的であるべきだという認識が醸成されることを私個人としては切望しています。」と書きました。
 今回の出来事は、先の投稿から5年以上経過し、事態はよくなるどころか、悪化しているとの認識を強くするものでした。実は、現在の東大駒場キャンパスHPのデザインは、筆者が学部長補佐として関わったものです。archive.orgというグローバルにウェブページを保存するプロジェクトで、過去に遡ると、2012年4月にリニューアルしていることが分かります(例えば、保存されている2012年4月19日現在のサイトをご覧ください)。
 筆者は、2010年度・11年度と教養学部学部長補佐を務めていて、HPリニューアル事業を担当しました。業者選定から関わり、サイトの構造、使い勝手について、業者の方とやりとりして、当時としてはなるべく使いやすいものをと努めていました。広報担当事務の方々、ウェブサイト構築業者の方々はいずれも熱心で、大変お世話になったことを思い出します。修正はもちろん行われていますが、12年以上経た今でも、基本的に同じサイト構造というのは、担当した筆者からすると嬉しくもある反面、国立大学が置かれている状況を如実に示すものでもあるように感じます。
 先日、慶應義塾大学塾長が国立大学学費を年150万円にするよう提言したことや、東大が学費引き上げを検討していることが報道されました。教育に関わっている立場からは、まず大きな前提として、教育・学習は大きな付加価値を生み出すものであり、そこに価値を認めて投資ができない社会は、衰退せざるをえないと危惧していることを、拙文の読者にお伝えしたいと思います。
 筆者は、文化人類学が学術的出自ですが、偶然が重なり、「サイバースペース」というヒトにとって未開拓の時空間をフィールドとする人類学に取り組み、社会科学系の研究者として、「インターネット研究」にその黎明期である1990年代から関わることとなりました。20世紀から2020年代までのネットワーク社会の進展を、技術面から捉えると、デジタル+ネットワーク+モバイル+AIという4つの技術が累積的に発展することで、私たちの生活空間に大きな変革をもたらしてきたと考えることができます。そうした累積的変化と社会への普及、私たちの活動・生活空間・様式の変容を、筆者は、リアルタイムで研究者として観察、経験し、調査分析、理解しようとしてきました。
 すると、グローバル社会のここ20年程の変容には、改めて驚かざるを得ません。学術的活動の観点からみると、電子ジャーナルなどの学術出版物は、驚異的スピードで増大しています。図1は、全米科学財団(NSF)の統計資料です。Scopusデータベースにおける科学・工学分野での国際会議発表・査読論文の件数を示していますが、2000年に110万件程度だったものが、2020年には290万件と、年率5%程度ずつ増大してきました。ところが、上記資料によると、2010年から2020年の10年間での、学術発表・論文数上位15カ国を比較すると、年平均増加率上位5カ国は、ロシア(10%)、イラン(9%)、インド(9%)、中国(8%)、ブラジル(5%)に対して、下位5カ国は、米英独(1%)、仏(-0.3%)、日本(-1%)と日本が最下位となっていました。

図1 科学・工学分野国際学会発表・査読論文件数の推移(出展:https://ncses.nsf.gov/pubs/nsb20214/publication-output-by-country-region-or-economy-and-scientific-field

 グローバルに学術研究が拡大し、電子ジャーナルなどのデータベース購読料は一層高額となります。さらに、LMS(学習管理システム)はもとより、生成AIも含め、クラウドベースのデータ分析、コンピューティングサービスは、筆者のような文系研究者でも必須となりつつあり、多種多様なサービスを大学は年間契約により導入しなければなりません。つまり、学術教育研究への投資は、グローバルの成長に合わせて(あるいはそれ以上に)拡充する必要があるにも関わらず、周知のように、日本社会では、定常的予算(運営交付金)は減少を続け、競争的資金も、例えば、大学研究者にとって重要な役割を果たす「科研費」は、2010年度2000億円から2020年度2400億円と10年間でわずか2割(年率2%に満たない)増加に留まり、その結果、アウトプットは年々少なくなっているのです。ここに近年の円安が加わり、日本の学術研究が一層大きな打撃を受けつつあります。
 拙文の読者であればご存知の方も多いと思いますが、アメリカの著名な高等教育機関は巨額の基金を有しています。例えば、ハーバードの2024年現在での基金は500億ドル(8兆円近く)、年間運用益はわずか3%の利回り(年によって、2割近くからマイナスまで変動は大きい)ですが、15億ドルと、日本の科研費全体に匹敵します。また、英米圏の大学授業料が高騰しており、有名私学は文系学部でも、年間授業料は6万ドル(日本円で1000万円近く)前後です。
 筆者は、1990年にニューヨーク州立大バッファロー校大学院に留学しました。正確な数字を覚えてはいないのですが、当時の授業料は、年間5000ドル程度(州外生)だったと思います。TA・RAのアシスタントシップをもらっていたので、自己負担は大きくありませんでしたが、州立の場合、州内学生に比べ、州外学生は高くなります。それが、2024年では、州外生の年間授業料が約2万ドルとなっています。2024年、「34年ぶりの円安水準」と何度も報道されましたが、筆者が留学した年がまさに、その34年前で、平均すると1ドル150円程度だった記憶があります。34年を経て、ドル円はほぼ同じ水準で、ドル建て授業料は4倍になっています。
 他方、日本の大学の授業料をみると、1990年、国立大学34万円(+入学金20万円)、私立大学61.5万円(+入学金26.6万円)だったものが、2023年、国立大学53.6万円(+入学金28万円)、私立大学96万円(+入学金26万円)と、30年以上経過しても1.5倍程度です。以前投稿しましたように、立教大学大学院社会学研究科は、志望者が増えており、2023年9月・2024年2月修士入試は、受験者数が合計200名を越えました(定員20人)。留学生の方が7割以上いるのですが、それは、海外からみたとき、日本は治安がよく、生活しやすく、高等教育の質に比べ、安価であることが寄与していると思います。
 これは日本全体に言えることだと思いますが、日本社会は自分たちを安く見積もりすぎているように思います。私たちは、価格が上がることに抵抗感を持ちますが、それは、働く人の所得を増やす契機となり、所得が増えることで、消費を拡大することへもつながります。つまり、所得<=>消費の好循環をいかに作り出すかが、大きな課題であり、高等教育を中核とする学術教育研究についても同様です。先の国立大学授業料を巡る報道でも、グローバル社会における学術教育研究という視点で、日本社会の現状とこれからを考えることが不可欠だと思いますが、そうした論点が乏しいと感じ、この拙文を投稿する次第です。
 高等教育を受ける教育機会は、個々人の家庭の経済状況に制約されるのではなく、知識に接し、修得する意欲ある個人すべてに開かれるべきものと考えます。また、高等教育の場合、教育を受ける個人の能力を高めるとともに、その個人が社会で活動し、付加価値を生み出すことで、社会総体の富の増大に寄与することになります。したがって、上記のようなグローバル社会の変化を踏まえ、学術教育活動と人材育成に、社会として相応の規模の投資を行うことへの社会的合意が形成されるよう、一大学教員としても、積極的に教育研究に取り組み、その成果を社会に還元できるように努めなければと思います。

 今回も、拙文に最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。